elm200 の日記

旧ブログ「elm200 の日記(http://d.hatena.ne.jp/elm200)」

「鉄血のオルフェンズ」が熱い

g-tekketsu.com

ガンダム・シリーズの最新作である「鉄血のオルフェンズ」が熱い。

いろんなところで言われているように、「泥臭い」感じがとてもよい。

例によって、これは「ガンダムか、ガンダムじゃないか?」みたいな議論が起こっているが、本当にどうでもいい。 戦闘シーンは良く出来ていると思うが、それは私が惹かれる一番の理由ではない。ロボットの造形に関しては、私はほとんど無関心である。

私は、脚本がとても良いと思う。

特に、主人公・三日月と、ヒロイン・クーデリアの対比が非常に効果的だと思う。

三日月は、民間の軍事警備会社で働く少年。孤児であり、教育は全くない。文字さえ読めない。

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一方で、クーデリアは、火星自治区のリーダーの娘であり、金持ちで生まれつきのエリートである。火星の大学を優秀な成績をあげつつ、飛び級で卒業している。

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まさに、およそこれ以上はないほど対極の境遇の二人である。

「彼ら」と「私たち」

言葉遣いの違いに二人の考え方がよく現れている。

クーデリアは、「彼ら貧しい子どもたちを救わなければならない」と「彼ら」という。

それに対して、三日月は、「自分の命も、みんなの命も大切だ」「俺の仲間を馬鹿にしないで」と「私たち」という。

クーデリアにとって、守るべき相手は「彼ら」であり、自分はそこに属してはいないのだ。ここに、彼女の理念的で理想主義的な性格がよく表現されている。一方で、三日月にとって、守るべき相手は常に「自分と仲間」つまり「私たち」なのだ。三日月には、学問はないので、鳥瞰的に物事を見て、理想を語ることはしない。ただ、目の前の苦難を乗り切って、自分と仲間を守っていくことにしか関心がないのだ。

この二人が会話をすると、どこまでも大地にしっかり足のついた三日月に対して、火星屈指のインテリであり才色兼備のクーデリアはまるで歯が立たない。自分がただの理想主義者で現実を変えることに何の力もないことを思い知らされるからだ。ただ、クーデリアは賢いので、これから三日月から、火星の過酷な現実を学び、大きく成長していくのであろう。そして、異性としても惹かれていくではないだろうか。今後の展開が楽しみだ。

私が「鉄血のオルフェンズ」で好きなセリフは、ビスケットの「勝つかどうかはわからない。われわれは、負けないように抗うことしかできない」というもの。これも、貧しい境遇に育った子どもたちの生き方を一言で表現している名言だ。

こういうふうに、「豊かな者」と「貧しい者」を対比させて、登場人物に奥行きを与えているこの脚本はとても優秀だ。

まだ2話しか放映されていないが、名作の予感がする。

アニメ制作会社は寄付を受け付けるべきだ

togetter.com

私もまさに同意見だ。

最近、私は気軽な娯楽としてアニメを見まくっている。正直に言って、アニメを見る方法はいまの時代いくらでもある。TVの放映を見逃しても、合法・違法の違いはあれど、さまざまな方法でインターネットでアニメを鑑賞することはできる。

私は、今年は、春期の「響け!ユーフォニアム」に感動して、Blu-ray の第1巻とサウンドトラックのCDを購入した。締めて約1万円。

anime-eupho.com

だが、その1万円のうちいったいいくらが、この作品を作るのに本質的な役割を果たしてクリエーター(監督・脚本・アニメーター・声優・制作進行)の人たちの懐に入るのか?おそらく多く見積もっても2割くらいではないのか?ひょっとしたらもっと少ないのかもしれない。

私は、円盤のプレス会社やアマゾンや宅配便の人々に金を払いたいわけじゃないのだ。次に、さらに素晴らしい作品を作ってもらうために、クリエーターの人たちを支援したいのだ。

正直、Blu-ray や DVD には魅力を感じない。技術的にいって、インターネットで視聴したほうがよほど簡単だし使いやすいからだ。とくに Blu-ray の技術は使いづらい。実は、私は Blu-ray プレーヤーさえ持っていない。だったらなぜ「響け!ユーフォニアム」の Blu-ray を買ったのか。

これは、純粋に「お布施」なのだ。だが、非常に効率の悪いお布施だ。クリーエーターの手元に届く割合が小さいからだ。

お願いだから、アニメ制作会社は、寄付を募って欲しい。私は、好きなアニメ制作会社には、(多額とまではいえなくても)寄付する用意があるから。金額が大きくなくても、何もしないよりずっとマシじゃないだろうか。

どこまでも爽やかな「TARI TARI」

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評価 ★★★★☆(4/5)

舞台は江ノ島。高校三年生の女子3人、男子2人がいろんないきさつを経て、合唱部を作り、いろんな事件を経験していくという青春ストーリーだ。

キャラクターデザインは、SHIROBAKOでおなじみの関口可奈味さんで、とても爽やかな絵柄だ。キャラクター描写も優れていて、登場人物一人ひとりに感情移入できる。

現代のアニメらしく、合唱部(正確には、合唱ときどきバドミンドン部、だが)は、女性優位。3人の女性メンバーが残り2人の男の子たちを常にリードする。この3人の女の子が、田中という男の子をからかう姿が、すごくリアルな女子高生ぽかった。そうそう、よくアニメに出てくる「○○君」なんて呼ぶおとなしいお嬢様的な女の子なんて、リアルにはまずいないよね。そういう意味で、この作品の人物造型はかなりリアルというか実写寄りだった。というか、なんかアニメを見ているはずなのに、実写のドラマを見ている錯覚にとらわれるような、そんな作品。

合唱がテーマではあるのだが、実際それほど全面に出てきたわけではない感じかな。私からすると、この作品の音楽的側面はそれほど印象に残らなかった、というのが正直なところ。ちょっとこの作品について、そう言ってしまうのはどうかとも思うんだけど。

人物描写・背景美術は文句なしに美しく、爽やかだった。あえて難を言えば、ストーリー展開。学校が突然廃校になってしまうのは、日本の現行法からしてあり得ないので、ちょっとついて行けなかった。もうちょっと穏当な方法で、盛り上がりを作ることはできなかったのか。この点、★をマイナス1したけれども、こういう青春ドラマの王道を行くような作品を高く評価する人たちがいるだろうことは理解できる。

先進国の経済成長は終わったのか?

先進国経済の経済成長が終わりつつあるのか?という議論が最近多い。たとえば、

先進国の経済成長はもう終わったのか?経済学者の悲観論vs.不屈のネット陣営

Has the ideas machine broken down?

等々。

そこでデータを調べてみた。

日本・米国・ドイツについて、1960年から2010年まで、10年ごとに区切って 実質 GDP 成長率の平均を取ったものをグラフにしてみた。すると確かに見事に右肩下がりである。先進国で希望が萎んでいくのも仕方なく思える。

しかし反論もある。マンキューの「入門経済学」には次のグラフが掲載されている(原典では棒グラフ)。

これを見ると、1950年~1970年の成長率が際立っている。マンキュー先生自身のコメントは次の通り。

...生産性の減速は明らかである。1970年 を境に、成長率は 3.7 % から 2.2 %へと減速した(中略)この図は重要な教訓を示している。歴史的に比較してみると、変則的なのはむしろ1950年代と1960年代の急速な成長のほうである。おそらく、第2次世界大戦後の数十年間が異常に急速な技術進歩の時期だったのであり、1973年から成長が減速したのは、技術進歩がより正常な率に戻ったにすぎないのである。

「1950年~70年が特別だったんだ、いま経済のパフォーマンスが良くないからってあまり気を落とすなよ」とマンキュー先生は言っているわけだ。

これらの数字に対していろいろ妄想を膨らませることはできる。そもそも1950年以前の GDP 統計なんて本当に信頼できるか?という気もする。この点はマクロ経済学の専門家に聞いてみないとわからない。1950年から70年に起こったのは、自動車・家電(テレビ・エアコン・洗濯機)の大量普及であった。この時期に、人々は物理的苦役から解放され、生活水準の向上をしみじみと味わった。これは私たちが想像する以上に重大な技術革新だったのかもしれない。

現在、高度成長期にある新興国でも1950-70年の先進国と同じような自動車・家電の大量普及が起きている。こうした機械が人々の生産性を上げるとともに、需要を刺激して、高い成長率を維持させているのかもしれない。

いまの先進国における低成長は、逆に自動車・家電に相当するヒット商品がないからなのだろうか?私はこの点に関してはいろいろ思うところがあるので次回にて。

もっとも、あれこれいろいろと考えても、未来の経済の姿は正確には予測できないものらしい。マンキュー先生は次のようにぶっちゃけている。

技術進歩と経済成長は将来どうなるだろうか。歴史をみる限り、いかなる予言も確信できる理由はほとんどない。生産性の原則も加速も、それらが現実となる以前に予想した予測家はほとんどいなかった。

マンキュー入門経済学

マンキュー入門経済学

私が海外脱出を画策する理由

久しぶりにブログで突っ込みやすい話が見つかった。Twitter に書くのも断片的すぎるので、ブログで書いてみよう。

僕が海外脱出を画策しない理由 - 脱社畜ブログ

しかし、僕自身は(今のところ)海外脱出を具体的には画策していない。今日は、なぜ僕が海外脱出を積極的に考えていないのか、その理由を書いてみようと思う(念の為に言っておくと、これは僕の個人的な話である。海外脱出を画策する人に水を指したりする趣旨ではないことを最初にお断りしておく)。

普段から深く共感しつつ拝読している「脱社畜ブログ」。ご本人も言及しておられるが、まさに「ポスト・海外ニート」という立ち位置で、現代日本の腐った労働事情に対する鋭い批判が素晴らしい。ただし、海外ニートさんとは違って、海外脱出を図る気は全くないらしい。その理由は、一つ一つもっともで特に論評することはないのだが、「日本に留まる理由」が簡潔に箇条書きにされていて、テンプレートとして面白いので、これを利用して「私が海外脱出を画策する理由」を気楽に書いてみたい。

食べ物の問題

日本食は美味しいし好きだが、特にこだわりはない。海外にいるときに、味噌汁が飲みたいだの梅干しが食いたいだの、思ったことは一度もない。私はどこの国に住んでもその土地の食べ物を喜んで食べる。全部がうまいわけでもないのだが、新しい食べ物を探求するのは単純に面白い。よって食べ物に関しては全く問題なし。

言葉の問題

私は日本生まれの日本人で日本語のネイティブスピーカーだが、特に日本語に対するこだわりはない。日本語は小説や詩を書くにはよいけど、論理的な文章を書くにはいまひとつだな、といつも感じる。文脈依存で主語・目的語の省略が多いので、文化を共有しない人と日本語を使うと、意思が正確に伝達できない可能性がある(ソフトウェアのオフショア開発や BPO など海外の外国人に仕事を頼むのが難しいのはかなりの部分日本語のせいだと思う)。私はむしろ子供の頃から英語が好きで、英語漬けでも気にならない。もちろん、英語に関してはネイティブではないので、もどかしく感じることはあるが、できればずっと英語で生活していたいほうだ。

治安の問題

日本の治安は世界的に見ても、たしかに抜群によい。ただし、いまは、香港やシンガポールも非常に治安がよくなっている。実は治安の悪い国でも、すべての地域で一様に治安が悪いわけではない。必ず危険な場所と相対的に安全な場所がまだら模様に混在している。だから、外国でまずすべきは「どこが治安が悪い地域なのか」正確に把握することだ。そして治安の悪い場所を通過するときには、車で移動する等の対策を取ること。こうやって気をつけていれば、事故にあうことはそれほどないと言っていい。なので私は別に外国が特に危険だとは考えていない。

日常の問題

この点は、日本好きな人たちを怒らせそうなので、さっと通過するが、私は特に日本の生活が好きなわけでもない。外国の諸都市と比べると東京付近の生活にはいろいろ不満はある。個人的には、ネットと電源のあるよいカフェが極端に少ないのが一番気に入らないポイントかな。温泉とスーパー銭湯はよいと思う。

友人の問題

外国語ができて外国人の友人ができてくると、彼らと話すほうが面白くなった。日本人と話すのは安心できるのだが、やはりそこは均質的な民族で、だいたい似たりよったりの話になる。その点、外国人の言うことは予測ができないことが多く、興味深い。それでもアジア人は日本人に近いので親しみやすい。英語圏の国にいると世界中から移民が集まっているので、とてつもない体験ができることは請け合い。だいたい腹が立つのだが、相手の考え方が理解できるにつれて、寛容さがもてるようになる。

ーーー

世界で一番、海外へ出稼ぎに行くフィリピン人でさえ、仕事さえあればフィリピンで暮らしたいと言う。私はどの国に行って話を聞いても、自分の国が好きだという人たちが圧倒的だった。人間って本来、そういうものだと思うよ。自分の生まれ育った場所が好きでそこにずっと住み続けたいと思うのが普通なのだ。その一方で、世界最高の福祉を誇る北欧出身の若者が自分の国にいるのは耐えられないと文句をいうのも聞いた。だから、どの国も自分の留まりたい多数の人々と、外に出たい少数の人たちから成立しているんじゃないだろうか。

だからみな好きなようにすればいい。留まりたい人たちは留まればいいし、出ていきたい人は出ていけばいい。もちろん、日本に居続けるからって、外国のことを無視して良いということにはならないけど。

(久しぶりに気楽なブログエントリーを書いた。本来ブログなんてこんなものよね。いままで肩に力が入りすぎていたのかもなあ)

パブリック・マンのその後

2012年2月に私はこういうエントリーを書いた。

パブリック・マン宣言

あれから11ヶ月が経った。いまの状況について報告しよう。

私はあのとき自分の生き様をインターネットで報告しながら生きて行くと宣言したのだった。同時に自分の財務状況も報告を始めたので、私のパブリックマン宣言を「個人的財務の全面公開」と解釈した人達も多かったがそれは私の企図するところではない。

その後、私は Skype 相談、オンライン学習コミュニティ・エルムラボと新しい企画を打ち出してきた。Skype 相談は延べ150人ほど、エルムラボの会員数は、現在40名弱である。

私は去年の5月末に、日本を出た。訪れた国は、ベトナム・フィリピン・スイス・トルコ・ドイツ・イタリア・フランスなど。私は、オンラインで稼ぎつつ、世界中の好きな場所に住む、というライフスタイルを試みた。

ネット上だけで稼いで暮らすという生き方がもう少しで手に入るかのように見えた。ところが、私の心はなぜか浮かなかった。

私は「ノマドで行こう」という標語を掲げている。これは私の生き方のスタイルを掲げたものにすぎない。いま巷を騒がせているノマド論争などどうでもいい。ただ、私がこの国際放浪者のような生活を経て得た結論は、結局人間はどこかで誰かに深くコミットしないかぎり幸せになれないのではないか、ということだ。

特に2012年9月から12月まで滞在したベトナムの生活に、かつてような楽しさがぜんぜんないのに驚いた。かつてはベトナムで本気でビジネスをやるつもりだった。だから必死にベトナムの社会について学ぼうとしていた。ところがネットビジネスで日本人相手に稼ぐだけの商売では、私が物理的に住むベトナムへの関心は乏しくなる。私はベトナム人の友人たちに「なぜあなたはベトナムに住んでいるのか」と聞かれたときに返答できなかった。とても恥ずかしく感じてしまった。

インターネットで稼ぐのは至難の技だ。普通にメシが食えるレベルになかなか達しない。これで果たしてまっとうな仕事と言えるのか?私はそんな疑念にも襲われた。そんな自分が偉そうに Skype 相談やエルムラボを主宰してよいのか。だが、そういうネガティブなことをインターネット上で述べることはためらわれた。言えないことが増えるにつれ、私はブログから遠ざかるようになった。

いま思えば、こういうことだ・・・。私は功を焦りすぎていたのだろう。ネットビジネスを軌道に乗せるにはそれなりの時間が掛かる。私の頭にあったのは、以前ソフトウェア開発の仕事をしていたころの月60万円くらいの収入だった。それに比べると大幅に収入が減ってしまった自分の境遇が悲しく思えた。

いまはとても難しい時代だ。評価経済論で私が述べたとおり、これから汎用の情報パッケージ(音楽CD、ソフトウェア、書籍、電子書籍・・・)を売ることはどんどん難しくなって行く。評価経済の時代には、人間が物理的に身体を動かしてやる必要のある仕事は機械に置き換えられて行くので、雇用が減り人々はカネが稼げなくなるのだが、同時にカネがなくてもなんだかんだと生きていける世の中になる。

こういう時代への過渡期においては、新しい産業に従事する人達ほど、カネが稼げなくなるという矛盾した現象が起こる。それゆえ恐怖を覚えた人達はお役所や昔ながらの大企業にしがみつこうとする。だが、これらの牙城が崩れて行くのも時間の問題とも言える。

はずかしながら、私もこうした大変化を前にして、恐怖に足がすくんでしまった。ネットからだけカネを稼ぐことの恐るべき不安定性に戦慄した。

私は評価経済への移行を焦りすぎたのだ。社会は一足飛びにそこに到達するわけではない。長い移行期を経ていく。その過程では、従来の貨幣経済と非貨幣的な評価経済の不思議な同居が続く。私は現実的にはその両方に足をかける必要があるように思える。

エルムラボは、多くの人たちが大変喜んでくれている。だから、これだけはきちんと続けていきたいと考えている。具体的にどういうことを今年していくかはまだいろいろと思案中なので、ブログには書けない。はっきりしたらみなさんに報告したい。

(こんな個人的なことをいちいち書くことに意味があるのかどうかはわからない。ただ私はパブリック・マン宣言を裏切りたくはない。ブログ上で私の生き方について定期的に報告することに、ある種の社会的責任を感じている)

はてなブログテスト

はてなブログを書いている。

さすがにはてなダイアリーの老朽化は著しく、あのダサいデザインに耐えがたいものを感じ始めた。 使ってみると、はてなブログ、なかなか良い感じである。 はてなダイアリーからの移行はしないで、はてなブログを心機一転書き始めることにする。