elm200 の日記

旧ブログ「elm200 の日記(http://d.hatena.ne.jp/elm200)」

年齢に対する新しい考え方

私は、今年6月に47歳になる。もう50歳まで3年となった。自分が子供のころ、50歳と聞けばかなり老いた印象があったが、当時のイメージに比べると自分がそこまで年老いた感じはまだしない。

「○○歳の平均余命」とは、「○○歳の人が平均してあと何年生きるか」という数字である。

男性の平均余命 0歳 20歳 40歳 65歳 75歳
1960年 65.32 49.08 31.02 11.62 6.60
2010年 79.64 60.07 40.81 18.86 11.58

これは、厚生労働省が発表している平均余命の推移からの抜粋である。1960年から2010年にかけて、20歳の人の平均余命は、49年から60年へ約11年伸び、40歳の人の平均余命は、31年から41年へ10年ほど伸びている。概して男性は、この50年間で、約10年ほど寿命が伸びていると言えるだろう(女性に関しても同様の傾向があり、かつ、男性より常に余命は長くなっている)。平均して、1年に 0.2 年ずつ余命が伸びている計算になる。

これについて別な言い方をすれば、1年余計に歳をとっても、0.8(=1-0.2)年分しか死に近づかないということである。たとえば、2010年において40歳の男性は平均してあと約41年生きることになっているが、おそらく現実にはさらに長く生きることになるのではないだろうか。

私たちの年齢に対する感覚は主に子供のころの大人たちの言葉に影響されて形成されてきた。「○○歳になったら結婚するものだ」「○○歳になったらもう転職は出来ない」「○○歳になったら新しいことには挑戦するのは無理だ」等々。私は、年齢が人生上の意思決定に無関係とは言わない。人間も生物である以上、一定の時間をかけて成熟した後、一定の時間をかけて老化していき、やがて死に至るのはやむを得ない。ただ、最近は栄養や医学の向上によって、平均余命が伸びて、より健康に長く生きることができるようになってきているのも確かだ。だから、私たちが持っている常識を常に補正しながら考える必要があるだろう。

もし常識というものが、過去のある時点では真実だった知識だとすれば、ひょっとしたら、私たちが年齢に対して持っているイメージは例えば50年前の平均余命に基づいているのかもしれない。だとすれば、私たちが「○○歳ならこれこれすべき」と思っているその「○○歳」から10歳くらいを引くとちょうどよいのかもしれない。つまり、今の50歳は昔の40歳であり、今の40歳は昔の30歳くらい、というわけだ。

そう考えると、私は今年47歳になるけれども、50年前の37歳とほぼ同等というわけだ。それならば、まだまだ働き盛りであり、どんどん新しいことも覚えていかなければならないだろう。

私は、日本社会にうまく馴染めず、組織に長期間所属することができなかった。結果として、私は、組織の中で出世することもなく、管理職に就くこともなかった。管理職に就けなかったから、私はずっと現場の仕事(=プログラミング)しかできなかった。

しかし、「人間万事塞翁が馬」とはうまく言ったものだ。私は、いわゆる「偉い人」になって下からちやほやしてもらうということがなかったので、見栄を張る必要がなく、いつでも気兼ねなく新しいことを覚えるため初心者に戻ることができた。組織の上に行けなかったために、いつでも自分より若い人たちと一緒に仕事をして新しいアイディアを吸収することができた。現場仕事ばかりしていたために、市場価値の高い技術力をずっと維持することができた。

高齢化社会」に対する世間一般のイメージは明るいものではないかもしれない。ときに高齢者が疎まれてしまうのは、過去の物事に固執して若い人たちを悩ませるからだろう。だが、人々の寿命が伸びるこれからの時代は、高齢者のほうが若者に歩み寄る必要があると思う。私は、中年になって、古い事柄に固執する人たちの気持ちも理解できるようになった。これは「特定の環境に対する過剰適応」なのだ。「いままで長時間投資してきた、ある特定の環境においては、非常に高いパフォーマンスを発揮するが、それ以外の環境に適応する能力を失った状態」と言いかえても良い(機械学習における「過学習」状態にちょっと似ている)。

こういう状況に陥らないためには、定期的に自分が慣れた環境を自ら壊してみる必要がある。感覚的にいえば、環境の20%程度の部分は絶えず変化させていくべきだ。そうすることで、変化に対応する能力を失わずに済むようになるだろう。

かつて、高齢者は希少な存在だったから、若い人たちに敬ってもらえた。だが、これからは数も多いから、高齢者というだけで尊敬してもらうのは無理だし、高齢者自身がよい社会の一員たるべく努力する必要があると思う。高齢者も周囲の人たちも意識を変えていく必要がある。私は、過去の価値観を振り回し、若者の揚げ足を取るような高齢者にはなりたくない。願わくば、自分の気力や体力が衰えていくのは受け入れつつも、自分のできる範囲で絶えず新しいことに挑戦しつづけるような高齢者になりたい。

というわけで、いまは私は機械学習に関する知識を吸収しているところだ。上でも述べたとおり、私はいままで何十回と仕事や住む場所を変えてきたおかげで、中年になっても、新しいことに挑戦するためらいがない。私は、本当に運がいい。今年は、なんとか機械学習関係の仕事を始めたいと思っている。これからの社会は指数関数的に多くのデータを生み出すようになっていくし、それを処理する計算資源もどんどん増えていくから、データから有用なパターンを見出す機械学習に対する需要はますます高まるだろう。なにせその先にある(汎用)人工知能は、たいへんロマンがあるし、一生を捧げるに値するテーマだと思っているから。