elm200 の日記

旧ブログ「elm200 の日記(http://d.hatena.ne.jp/elm200)」

ファッションとは言語であるという仮説

私は、ファッションが嫌いだ。大嫌いだ。あるいは「大嫌いだった」と言うべきか。

私は、子供の頃から服装がダサいと言われ続けた。特に、家族の女性たちから。それがあまりに辛辣だったために、深く心の傷として残っている。自分は、ダサいやつなのだ、と。ファッションセンスがゼロなんだ、と。心の奥底に深く刻まれたのだった。

私は、正直なところ、どの服を着るべきなのか、どんな髪型がよいのか、どんなインテリアがよいのか・・・という「色と形」に関する話がとことん苦手だ。私はウェブプログラマーをしているが、ウェブサイトを組み立てる技術は知っていても、ウェブサイトの見栄えのデザインはさっぱりできない。これは、私が服を選べないという話と通底する問題だろう。

何が嫌かと言えば、「色と形」の話というのは、機能性の問題ではないからだ。たとえば、服がどんな色だろうが形だろうが、服を着ていれば、一応、体温を維持し、物理的衝撃から保護するという機能は果たせる。だったら、色や形などなんでもよいではないか。いったい「流行」とか「かっこいい」とか、いったい何の話なのだ。そういう風に、小学生の頃からずっと思ってきた。

私が思春期を過ごしたのは、バブルの頃だ。当時は、奇抜なファッションが幅を効かせていた。私から見ると、ファッションなどというものは、人々に衣服の買い替えを促し、利益を上げるためだけの、商業主義の権化のようにしか見えなかった。

だが、最近になって少しだけ考え方が変わった。

歳を重ね、もともと大したことのない容貌がますます衰えていくのを自覚せざるをえない。私は、仕事柄、若い人たちと接することが多いし、これから、老人になっても、きっと若い人たちの世話になって生きていくことだろう。若い人たちに嫌われるわけにはいかない。そのためには、自分の服装に少し気を付けないといけないのではないかと思うようになった。

街ゆくお年寄りを観察しても、やはりおしゃれをしている人は、素敵だなと感じざるをない。加齢に伴って容貌が衰えていくのは避けられないので、むしろ、歳を取ってからこそ、おしゃれは必要なんだろう。

自分がどんな格好をしたらいいか全くわからない、と先ほど述べた。だが同時になんとなく「この人はおしゃれだな」というのもわからなくはないのである。これは確かに矛盾しているのだが、実際そうなのだ。だから、私は、この「ファッション」という現象に対して、正面から向き合わなければならないと思った。自分らしいやり方は、徹底的に理詰めでこの現象について理解することだ。

だからこんな本も読んでみた。

ドン小西のファッション哲学講義ノート (モナド新書008)

ドン小西のファッション哲学講義ノート (モナド新書008)

この人は、もともと金持ちのボンボンだったのだが、ファッションが好きで、自分で服を作り始めるようになった。一時は、たいへんな売れっ子だったのだが、時代が変わったときに、自分のこだわりが強すぎて、売れ筋の服を作らず破産したという気骨の人物である。彼のファッション哲学はなかなか興味深かった。だが、それでファッションが理解できるようになったかといえば、やっぱりそんなことはない。

ただ、この本を読んでおぼろげな仮説が浮かんできた。それは「ファッションとは言語である」というものだ。

人類は、進化の過程で体毛の大半を失ってしまった。気候に適応し、物理的衝撃から守るためには、何らかの物質で身体を包むしかない。もちろん、最初の目的はそれだけのことだった。問題は、「何らかの物質で身体を包む方法」が一つに定まらなかったことだ。無数の方法があった。さまざまな素材、さまざまな色、さまざまな形。人間というのは、こういう恣意性があると、それを徹底的に利用し尽くす傾向がある。

それは言語とよく似ている。言語は、たぶん叫び声から始まった。それが少しずつ分かれていき、様々な音が様々な意味を表現するようになった。ただ、その音と意味の組み合わせは完全に恣意的である。昔、言語学の本にそんなことが書いてあった気がする。文字だってそうだ。ある形が文字として使われて、言語の中である役割を担う。「あ」という発音が、「あ」と書かれようが「a」と書かれようがどちらでもいい。その組み合わせは完全に恣意的である。歴史的な偶然でたまたまそうなったにすぎない。ただし、一度関係が確立してしまえば、その文字の使われ方はその言語の中で固定される。

ファッションというのは、おそらくは衣服を用いた言語の一種なのだろう。それが時代によって変遷するのは、言語において、語彙が変遷するのに似ているのかもしれない。「流行語」などという言葉もある。私が、ファッションを忌み嫌ったのは、ある全く同じ格好がある時代ではかっこいいのに、別の時代においては流行遅れのかっこわるいものとして扱われるという恣意性が気に入らなかったからだ。でも、もともと「色や形」とそれが表現する「意味」の結びつきが恣意的なものだとすれば、それもやむを得ないことなのかもしれない。日本語だって、平安時代と現代では、語彙も文法も全然違う。なんで同じことを表現するのに、平安時代はこういう風に言って、現代ではああいう風に言うのか、などと文句を言っても、「それはそういうもの」としかいいようがない。

私は、さながら中学時代に英語の授業に落ちこぼれて、以降英語がまったくわからなくなってしまった人のようなものなのかもしれない。あるいは、小学時代に分数の計算がわからないまま、大人になってしまい、複雑な数式を目にすると狼狽してしまう人みたいなものなのかもしれない。私は、どういうわけか、子供の頃、「ファッションの文法」を理解しそこねた。そのまま、大人になってしまったものだから、おしゃれな人たちが身体を使って表現する言語の意味がまったく理解できないのだ。

だから、これから私は、ファッションを一つの外国語だと思って学んでいこうと思っている。私は、幸い、言語を学ぶことは大好きだ。この類比が正しいのかどうかはわからない。ただ、当面、この仮説に従って行動し、若い人たちにせめて不快感を与えない程度の服装を身につけようと考えている。

結局、これはコミュニケーションの問題なのだから。「私は、あなたの存在を認知していますよ、自分は安全な存在ですよ」という社会生活上、最低限のメッセージは、ファッションを通じて発信していくべきじゃないだろうか。