elm200 の日記

旧ブログ「elm200 の日記(http://d.hatena.ne.jp/elm200)」

自分が能動的に社会に働きかけていくということ

ブログをそれなりの頻度で更新しようと思いつつ、なかなかそれができていない。今日は最近考えていることを書いてみよう。

私は今年の6月で48歳になった。48歳!数字だけを見るとだいぶ歳を取った気もする。たしかに若い頃に比べればいろいろ身体の変化も感じることがあるし、それだけの年輪を重ねてきたという実感はある。その一方で、精神にはまだ若々しい、あるいは未熟な部分も残されていて、48歳だからといって枯れ切っているわけでもないのだな、という風にも感じている。

私は物心ついたころには、すでにひねくれた子供だった。今思えばその原因らしきものは思い当たるがそれについては詳述しない。いずれにしろ、私は自分の周囲の環境と直接的なコミュニケーションを取るのが難しかった。あるものが欲しければとりあえず「それが欲しい」と言ってみればよいのに、そういうことができなかった。周囲から私への働きかけに対しても、適切に応答できなかった。うまくコミュニケーションが取れれば、周囲の私に対する対応を変えていくこともできたかもしれないのに、私はそれらの物事を変化しようのない所与のものとして受け止め、内面的に悩み続けた。いろいろ不幸な事情が重なっていたのだろう。

私は、かねてからブログで日本社会を批判してきた。だが、その批判のかなりの部分は、その子供の頃のひねくれたコミュニケーションの延長線上にあるのかもしれない。私は、自分で自分の生きる環境を選びとることができる大人になっているのにも関わらず、心のどこかの部分は、親もとで暮らし自分で環境を選択できないまま、もがき続けた子供時代にまだ生きているような錯覚を持ち続けているのかもしれない。

私は技術屋なので、技術的な事柄については、全てが可変であることを知っている。いまは技術的にある目標が達成できなかったとしても、それはたまたまいまの技術水準がそうであることを示すにすぎず、未来の技術革新によって可能になるかもしれない。ところが、不思議なことに、技術に疎い一部の人たちは、常に現在の技術が所与(不変)のものとして、社会を論じようとする。おそらく、彼らが技術の動作原理を理解したことがなく、またその動作原理に基づいて、技術的な改良ということを行った個人的な経験がないことに基づいているのかもしれない。

ただ、私はその一方で、社会的な事柄については、その技術に疎い人たちが技術的進歩に対して取るのと同じ態度を取っているのかもしれない。日本社会の諸様相、あるいは、自分の周囲の社会的環境といったものも、実は、決して不変なもの、あるいはただ受動的に甘受しなければならないものではなく、絶えず変化していくし、また、小さいながらも自分の意志によってある程度までは変化の方向性に影響を与えることもできるはずなのだ。私はどうもそういう方面の発想ができない個人的偏見を抱えているらしい。それはおそらく子供のころ、自分の周囲の人たちとうまく意思疎通できず、有効に周囲に働きかけることができなかったという個人的な経験(成功体験の欠如)に基づいているように感じている。

確かに、日本社会の抱えている問題は大きい。

失敗の本質―日本軍の組織論的研究 (中公文庫)

失敗の本質―日本軍の組織論的研究 (中公文庫)

この「失敗の本質」で描かれているような問題は、いまだに日本社会の根深く残っており、それゆえ、いま日本社会全体としては、太平洋戦争に続く第二の敗戦に向かってひた走っている。個人では直接には抗いようのない大きな力がここに働いている。

Imagining Japan: The Japanese Tradition and its Modern Interpretation

Imagining Japan: The Japanese Tradition and its Modern Interpretation

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あるいは、米国の宗教学者であるロバート・ベラーの書いたこの本を読んでも、日本的なものがいかに根深く容易に変わりうるものではないことを再確認させられる。

徳川時代の宗教 (岩波文庫)

徳川時代の宗教 (岩波文庫)

読んだことはないけれども、日本語で読めるものでは、この本も良さそうだ。

ただ、同時に文化や民族性といったものも、完全に不変ではなく、長い時間をかけながら少しずつ変化していくのも事実だ。まして、いまは、インターネット上で世界の隅々まで一瞬で情報が駆け巡り、航空機が世界中を行き交い、あらゆる地域の人々がお互いに影響を与え合う時代だ。少子高齢化が進む日本では、今後、若い外国人の人たちに大勢日本に来てもらい、次世代の日本社会の一翼を担ってもらう必要も出てくるだろう。ある種の「原型」としての民族性のしつこさを決して軽視はできないが、変化していく部分が全くないと悲観するのも早計である。

私は、48歳になった。ほぼ半世紀生きたことになる。そろそろ私は長い「幼年期」を脱して、大人としての責任を担い始めるべき時なのかもしれない。大人になるというのは、自分の背負っているものについてすべて自分で引き受ける覚悟をするということだ。誰か他の人のせいにしないということだ。自分のできることはもちろん小さなことに過ぎないが、同時に本気で取り組めば、ほんのわずかだけこの現実の社会を変えることになる。社会というのは個人の集積で成り立っており、私たち一人一人が即社会の一部であることは自明である。そういう一人一人が自分自身のその周辺を変化させれば、それは小さいながらも社会が変化したということである(もちろん、社会には大きな慣性が存在するので、せっかく個人が起こした小さなよい変化も、再び押し流されて元に戻ってしまうということもよくある。だが、同時に新たな傾向性として定着していくこともある)。

当たり前のことだが、人は自分のできることしかできない。だが、逆に言えば、どんなに小さくとも、自分にできることさえすれば、それは人として生まれてきた使命を十分果たしたと言えるのではないか。まずは、身近なことから始めていこうと思う。自分の仕事や私的な人間関係において、他者に奉仕する心を持つこと。独善に陥ることなく、緊密な意思疎通を図りながら、意見を集約して、よい変化を起こしていくこと。学習や運動を通じて、可能なかぎり自分の頭脳と身体をよい状態に保つこと。私のしたことなど、やがて忘れ去られていくだろう。意味などないのかもしれない。だが、あるいは別の形に姿を変えて、密かに後世に伝えられていくのかもしれない。それは自分には制御できないことであり、深く考える必要はないだろう。

自分のできることを少しずつやっていこう。無理せず焦らずに。そんなことをいま私は考えている。