elm200 の日記

旧ブログ「elm200 の日記(http://d.hatena.ne.jp/elm200)」

会社に残ることにした(当面はお試し期間だが)

先日、会社を辞めるべきか否か - elm200 の日記というエントリーを上げて、自分の仕事をめぐる状況を告白した。その後、会社の人と話し合いを積み重ね、新しい可能性が見えてきたので、もう少しだけ、この会社で働いてみることにした。

とあるマネジャーが主導する新規プロダクトがあり、それをソフトウェアエンジニアとして一緒にやってみないか?というお誘いを受けたのだ。それは、ある業界に対するマーケティングツールで、すでに潜在顧客が実際の関心を示し始めていて、それなりに有望に思えた。

大昔、私はあるスタートアップに参画したことがあり、それはいろんな理由で結局うまくはいかなかった。新規事業はリスクの高いものであり、うまく行かないことのほうが多いのは確かだ。しかし、そこから多くの学びがあるし、チャレンジすること自体は、人類社会のためにとても大切なことだと思う。

私は所属企業が情報公開へ後ろ向きなことに失望しているが、この新規事業は他の会社とのジョイントベンチャーであり、所属企業の雰囲気を少し薄めることができるのではないか?とも思った。

ただ、当面は「お試し期間」になる。そこで会社または私が、難しいと判断すれば、私は会社を辞める可能性がある。

私は、人生のほとんどの期間をほぼ一人で生きてきた。子供時代は、いやいや学校組織に属していたが、社会人になって最初に入った会社(都市銀行)は半年で辞めてしまい、フリーターになった。その後、重層下請構造の最末端の零細企業でプログラマーとなり、そこから仕事をしたり辞めたりを繰り返して、45歳になった(6年前だ)。このときまでに、私の貯金は底をつき、真面目にフルタイムでソフトウェアエンジニアをする以外に食べる方法がなくなった。それでも最初はフリーランスのエンジニアだったが、のちにこの会社で正社員になった(3年前のことだ)。

正社員という働き方を3年もできているのは驚くべきことだ。ただ、私はずっと一人で生きてきたので、ある程度、かっちりした組織の中でどう振舞うべきかよくわからない。特に、ブログのような個人的活動を組織の一員という立場と調和させたらいいのかわからない。誰も、傷つけないように、批判されないように、と考えれば、一切何もしないというのが一番安全なのかもしれない(実際、そう考えて多くの人たちが沈黙するのだろう)。

ただ、それではまさに「社畜」ではないか?私は、いまたまたまこの所属企業に属して働いているけれども、それ以前に私は人類の一人であり、この人類社会に直接に所属している。だから、私は会社の一員としての立場より、人類の一人という立場を優先したい。もちろん、法令は順守する。職務上漏らしてはならない秘密は公開しない。だが、仕事の内容について全く何も話せなければ、同じく人々の重大な秘密を取り扱う医師や法律家という人たちも、彼らが扱うケースについて一言も話せないということになるだろう。具体的な事物との紐づけができない程度に抽象化して、一般論として共有することは人類の福祉にとって有益なのではないだろうか?

会社なり誰か他の人なりから怒られるまで、私は、極力、自分が考えたことを公開していくつもりだ。正直、私のような従業員が不都合なら、会社からはっきり引導を渡してほしいと思う。その際は、私はこの会社を離れて別の場所に行く。本当の自分を隠したまま本来自分を受け入れてくれない場所で働くより、本当の自分をさらして、なお自分を受け入れてくれる(むしろ歓迎してくれる)場所で働くほうがよい。この世界にはそういう場所が必ずあると信じている。

EV化に乗り遅れる日本

欧州を筆頭に世界がEV化に向けて舵を切り始めている。

www.sustainablebrands.jp

2050年カーボンニュートラル目標に向けて、世界で運輸部門のゼロエミッション化の流れが加速している。欧州連合(EU)の欧州委員会はこのほど、温室効果ガスの大幅削減に向けた包括案の中でハイブリッド車を含むガソリン車など内燃機関車の新車販売について2035年に終了する方針を打ち出した。世界最大の自動車市場である中国も2035年までに新車販売のすべてをEVなどの新エネルギー車やハイブリッド車にする計画だ。米国は、カリフォルニア州が35年までにガソリン車の新車販売を禁止し、ニューヨークを含む米12州の州知事らと共に国全体での同様の規制を求めている。

一方、日本では、とかくEV懐疑派が多い。筆頭は、トヨタ社長の豊田章男氏。トヨタは当面HVに注力し、EVやFCVなども中長期で推進する「全方位戦略」で行くという。

www.bloomberg.co.jp

豊田氏は、自らハンドルを握ってサーキットを走るような車好きの人。結局のところ、機械機械していて、熱と騒音を出して疾走するガソリン車が好きなんだろうと思う。彼は心底では、EVをつまらない車だと思っているのではないか。そして、世界がEVに向かう速度を見誤っている。

jp.reuters.com

トヨタは2030年に電動車を800万台売るという。問題は内訳だ。そのうちHV,PHVが実に600万台を占める。私から言わせればHVなんてただのガソリン車じゃん、電動車にカウントするなよ、という感じなのだが。EU2035年にHVを含むを全ガソリン車を販売禁止にするというのに、その5年前にそんなにHVが売れるだろうか?販売そのものが禁止されるかなり前から、下取り価格の下落を懸念して、ガソリン車の売れ行きは相当減るのではないか?

www.nikkei.com

そんなトヨタに頼まれたのか忖度したのか、経産省も「EVもHVも水素も」と全方位戦略だそうだ。「二兎を追う者は一兎をも得ず」というではないか。EU・中国等、世界全体がEVに全振りしているのだから、日本も単純にそれに倣えばよいのに、どうして独自路線を歩みたがるのか?こんな落ち目の国が勝手なことをやっても世界の国々がついてきてはくれまいに。

(水素は扱いが面倒すぎて、水素社会が実現することは120%あり得ないと私は思っている。一部の周辺的な技術は実用化されても、水素がエネルギー体系の中心に来ることは絶対にありえない。投資するだけ無駄だと思っているが、なぜこんな筋悪の技術に夢を見たがる人たちが絶えないのか理解できない。たぶん、原子力と同じで巨大な装置産業が必要であり、政治を動かすことでおいしい思いができる人がいるから、という大人の事情があるのだろうと推測している)

いつの時代にも、新しい技術への懐疑派はいるものだ。たとえば、1990年代後半にもインターネット懐疑派がいた。「インターネットは一時の流行り」「おもちゃ」「実用にならない」等々。私は、ずっとインターネットの可能性を一貫して信じていたが。時代には必ず流れというものがあり、それに逆らっても所詮無駄な骨折りで結果は変わらない。ならば、その流れに乗ったほうが良いと思うのだが……。

私がなぜEVにこだわっているかというと、実はこれから20年の経済変革の中心に位置するのがこのEVだと思っているからだ。自動運転と再生可能エネルギーの普及を通じて経済全体の構造を作り替えていくものだろうと。もはやIT技術単体はあまり重要ではない。スマホは完全にコモディティ化しているし、スマートグラスもまあ・・・という感じ。"the next big thing"は必ずEVの周辺にあると信じている。

個人的動機もある。EVに関しては、私は乗り心地が最高だから普及してほしいと思っている。特に再エネ大好きなので、これと組み合わさったら最高だな、と。私がEV化を主張するのは、正直、私自身がそういうEVが普及した世界に住みたいという希望があるからだ。これがポジショントークであることは否定しない。

ただ、同時にマーケットやネットワーク外部性の力を信じているので、一度物事がある方向に向かい始めると、加速度的にその分野が成長していくことはあるのではないか、とも思っている。いま流れはEV+再エネに来ている。そうなると、小さな技術的障害はどんどん乗り越えていってしまうものなのだ。大勢の人たちが大量の資金を使って、いろんな手法をどんどん試していくからである。したがってEV懐疑派が「二次電池を作るときにCO2を大量に出すじゃないか」とか「内燃機関もエネルギー効率が上がっていて」などと各論で攻めてきても、こちらかすると「だから何?」という感しかない。

日本はこの30年間、賭けるべき技術を間違い続けてきた。だから、今回もHVという古い技術にこだわり、水素などという無駄な道草を食って、EVや再生可能エネルギーへの投資が遅れている。私はもうこの点はあきらめている。日本経済には未来がないということをただ淡々と再確認するだけだ。おそらく日本円がさらに安くなっていくのは確実だと思われるので、せいぜい外貨建ての資産を育てていき、来るべき日本経済のさらなる低迷に各自備えるしかないと思う。

浅草旅行

かなりヤケになって書いた「退職前エントリ」が、妙にバズってしまい、いろんなコメントをいただいたが、励まされる内容が多くて、とてもありがたいと思った。最近のインターネットは世知辛い話が多いが、まだまだ捨てたものじゃないと思った。

会社の同僚やマネジャーも私のエントリを読んでいて、心配して声をかけてくれた人もいた。つくづく良いホワイトな会社だと思った。ありがたい。

まだ辞めるかどうか結論は出していない。今日明日の週末、改めて考えてみるつもりだ。来週中には最終結論を出そうと思っている。

というわけでこの週末、私は旅に出た。行き先は……東京。浅草にやってきてバックパッカーズに泊まることにした。私は東京在住なのでわざわざ台東区で泊まる必要もないのだが、booking.comを見たらなんと1950円で泊まれるところがあったので、気分転換に泊まってみることにした。

インバウンド需要向けのきれいなバックパッカーズが浅草界隈にはたくさんある。ここカオサン東京オリガミという宿もその一つだ。8人一部屋のドミだがとてもきれい。ドミというよりカプセルホテルに近い寝台である。

ただ驚いたことに夕方の有人チェックインタイムが15時から17時までしかなかったこと。17時を過ぎたらメールで通知された暗証番号を入り口で入力して勝手にベッドまで行って寝てくれということらしい。そのことを知らなかったので17時過ぎに入り口でホテルに電話すると、店じまいしようとしていた受付の人がドアを開けてくれた。

受付の若い女性の日本語にはアジア系の訛が。韓国人か中国人あたりだろう。たぶんこのホテル自体も外国人経営なのかもしれない。ホテルは、新しくてきれいだし、運営もスマートで合理的だ。人件費節約で夕方2時間しか人がいないのも面白い。新しい風を感じて清々しかった。

このホテル、浅草寺のすぐ北にあるのだが、ここまでくるのに、都電荒川線三ノ輪橋から、歩いてきた。途中、いわゆる山谷地区を通ってきた。確かに簡易宿泊所は多くあったり、コンビニの前で道路に座り込んで酒盛りしたりするオッチャンがいたりはしたが、基本的には普通の住宅街、という感じだった。

かつて高度成長を支えた、この街に住む労働者たちもいまはすっかり年老いている。簡易宿泊所もみな古びている。普通のビジネスホテルや外国人向けのパックパッカーズに衣替えしているところも多いらしい。近い将来、こうした簡易宿泊所も消えてゆくのかもしれない。

米国だとスラムはとことん荒れていたりするのだが、日本だとなかなかそこまでの激しい貧富のコントラストは少なくとも街の表面からは見えないことが多い。それが良くも悪くもすべてを曖昧なまま包み込んでゆく日本社会の特徴なのかなと思った。

会社を辞めるべきか否か

私はいまある機械学習系の会社で正社員として働いている。

この会社に対する思いをあえてブログで公開してしまおうと思う。 この数年間ずっと感じてきて、いまいろんな矛盾がクライマックスに達しており、辞めるべきかどうか真剣に悩んでいるのだ。

この数年間、私はほとんど何もネットで発表することができなかった。 私の場合、ネットに対しては、自分の私的な思いをぶちまけるスタイルなので、どうしても自分に関係する事物に対して言及せざるをえなくなる。 ところが正社員として働くといろんな関係者とのいろんなしがらみがあり、どこまで何を言ったらいいのかわからなくなる。 そうなると何も言えなくなってしまうのだ。

いまのインターネットは何かと炎上騒ぎが多い。変な形で注目されると自分とはまったく立場の異なる人たちが大勢押し寄せてきて大騒ぎになってしまう。炎上マーケティングをしている人にとってはコストの一部かもしれないが、商売抜きでネットに関わっている人間にとっては、神経をすり減らすことになる。

私は公式には自分の所属企業を明らかにしていない。明らかにした上で、「これらは私的意見であり、所属企業とは関係ありません」と断りを入れれば、それで良いのかもしれない。それでも、この数年間、もし自分が書いたことで何らかの副作用が起こることを恐れていた。恐れれば恐れるほど何も書けなくなった。

書けなくなると精神が閉塞した。自分の魂の深い部分とのつながりが断ち切られたような、実存的な寂しさを感じた。下世話な言い方をしたら、「精神的便秘」とでも言おうか。世の中に向かって、自分をはっきり主張できない感じである。

そうなってしまった一つの理由は、私の所属企業の雰囲気もあると思う。社長は、外資系コンサル出身の人で、ノリはバリバリのビジネスマン。ウェブエンジニアのオープンソースや情報共有を是とする雰囲気ではなく、情報を囲い込み特許を取り知財をライセンスすることで儲けようという指向性を感じる。それ自体、責められるものではなく、金儲けという目的からすると正しいのかもしれない。ただ、私の指向性とは異なる

そういうわけで、そういう会社に集まってくる人たちもまた、積極的にネット上で自分のプレゼンスを主張する人たちではない。一部の人たちは匿名かつ会社とのつながりは隠して、ネット上で言論活動を行ってはいる。ただ、私は昔、外国にいたときのノリで、あくまでも実名でやっていきたいと考えているほうだ。顔出しもしてしまっているしね。(だいたい外国の人たちは、実名顔出しで活動していることが多い(匿名な人もいないわけではないけど)。でも日本人は本当にそういう人たちは少ないよね……)

まあ、こんなそんなで、私はどうもネットで自分を表現することが全くできなくなってしまった。せいぜいやっていたのは時事問題について Twitterはてなブックマークで評論する程度。それも1年くらい前からあまりできなくなってしまった。

私の所属企業の名誉のため言っておけば、この会社、とてもいい会社である。社員の人たちの人柄は良い。技術者の技術力は極めて高いし、営業の人たちも非常に優秀で顧客対応も素晴らしい。正直、非の打ち所がない。

ただ、正直、そういうあまりにそつなくビジネス的な部分、というか、広く社会への情報共有を是としない部分が、自分の価値観とは合わないのだ。

価値観。

www.youtube.com

先日見たこの動画、とっても説得力があったのだが、「能力やら報酬やらそういう面ではいくらでも会社は従業員に便宜を図れる。ただし、価値観の不一致だけはどうしようもない。価値観が合わないなら転職すべき」という主張をしていて、本当にその通りだなと思った。

そう考えるとやっぱり転職または独立すべきなのかな、とも思う。

所属企業の機械学習エンジニアの人たちは、本当に優秀で、私は正直ついていけていない。ある大きなプロジェクトが終わったタイミングで、「もう綱渡りみたいな仕事を繰り返してはいけない」と強く思い、行動を起こすことにした。この会社で私のような実力の者が機械学習エンジニアのポジションにいるのはふさわしくないと思った。だから、それは辞めて、機械学習の周辺にいるエンジニア(機械学習モデルを組み込むとか、APIの受け口を作るとか)になろうかとも思った。ただ、それらはできることかもしれないけど、本当にやりたいことだろうか?いま一つ自分でもわからない。

私はどうも顧客に喜んでもらいたいと思っているようだ。ただ、機械学習プロジェクトは成功率が低いこともあって、この数年間で私は成功の実感を持てなかった。AI技術は、現実の様々なタスクに対する適用の仕方が一番重要である。逆に言うと、正直、機械学習モデル自体はそこまで高度でなくても構わない。それより、データの質と量とか、どの業務にどのように適用するか?とかそういうほうが重要であることを経験を通じて知った。本当は、もう少し簡単なプロジェクトで定型的な機械学習モデルを使って手堅くタスクを解いていくということをやってみたかったのだと思う。ただ、この会社は高度なAI技術を提供することを売りしている(実際、エンジニアは優秀なのでそれができる)から、私の思いとは整合しない。

これから数日、次の仕事をどうするか会社と話し合うことになる。 場合によっては辞めることも考えている。 というか、たぶん辞めるべきなんだろうと8割くらい思っている。

正社員というのを初めて長く(3年間)やって、そのうまみを知ってしまった。 こうやって毎月、同じ額の給料が振り込まれるって本当にありがたいんだよね。 それ以前は、フリーランスでいるのが当たり前だったから、そんなことを思いもしなかったんだけど。

安定した定期収入を失うのは痛い。たぶん辞めるべきと思ってもなかなか「辞めます」と言えない理由の8割くらいは、このカネへの執着なんだろうと思う。 でも、経験上、カネのために仕事をし始めると、その後、ロクなことが起こらないことを私は知っている。もちろん、仕事はカネを稼ぐためというのが基本なのだけど、それでもなお「その仕事をやる意義を感じられるか?」という点を満たさないと楽しく仕事ができず、長続きしないのだ。

これから数日で何が起こるのか自分でも予想がつかないが、何とかするしかないし、まあ、何とかなるだろうとも思う。 「明日は明日の風が吹く」の精神かな。

ネット炎上の研究

今は知る人も少ないかもしれないが、かつては私はもっと頻繁にブログを書いていた。2006年から2011年ころまでの話だ。当時は、綺羅星のごとく面白いブロガーたちがいて、日夜、素晴らしいブログエントリーを読者に楽しませていた。やがて、一人二人と消えていき、いまはブログ界にかつての華やかさはもうない。

私もまた他の多くのブロガーたちと同じく、ブログを更新しなくなっていった。

どうしてそんなことが起こったのだろうか?

一つ、考えられるのはネットの炎上である。どんなに真摯にブログを書いたとしても、話題によっては、それに批判的な人たちが多数集まり、ブログの内容を十分に吟味せず(ひどい場合は一行も読まず)執拗に攻撃的な言葉遣いで批判を繰り返す。そこに生産的な議論など何もない。それにウンザリしたブロガーたちが、新しい文章を書き起こすのに億劫になっていったのは想像に難くない。実際、私がブログから遠ざかったのもそこに理由があった気がする。

なぜネットで炎上が起こるのか。そこで「ネット炎上の研究」という本を読んでみた。その感想をつらつらと書いてみたい。

ネット炎上の研究

ネット炎上の研究

これはジャーナリスティックな本ではない。著者は大学教員たちで、文体は論文に近い。著者たちの専門が計量経済学ということもあり、大規模なアンケートなど統計的に処理して定量的な評価を与えており、その客観的姿勢には好感が持てる。

本書では、幾多の炎上案件をいくつかの類型に分類し詳細に比較検討している。そうした炎上事件が起きていく過程で2000年代前半に信じられた「明るく自由なインターネット」の希望がしぼんでいく。それにつれて、人々の真摯な情報発信もまた萎縮していった。

中心にあるのは「相手に直接攻撃を加えるほどのネット炎上加担者は極めて少数」という主張だ。炎上に参加するのは、ネット参加者の0.5%にすぎないという。しかも、特定の人たちのみが繰り返し炎上に参加している。体感でいえば、私も確かにそんなものだろうなと感じる。ちょっと意外なのは、炎上に参加する人たちの中心的な属性は「年収が高く、ソーシャルメディアをよく利用する子持ちの男性」が多いとのこと。従来は「低学歴・低所得な人たちが生活の鬱憤を晴らすために炎上に参加している」と信じられてきた。しかし、どうもそうではないらしい。著者は、「子供を守るため、特定の価値観に固執した結果、炎上的な批判に加担するのではないか?」という仮説を立てているが、私にはよくわからない。

ただ、炎上参加者のうち、さらに攻撃対象に直接的な攻撃(直接メールを送り付ける等)を行う人たちはさらに限定的らしい(炎上参加者(0.5%)の数パーセント)。著者によれば、こうした人たちは「コミュニケーション能力に難のある人たち」であるという。社会には昔から必ず一定数のコミュニケーションに問題を抱えた人たちがいて、そういう人たちに「発見されてしまった」ことが原因だという。

結局のところ、インターネットのどういう性質が炎上を引き起こす根本原因なのだろうか?著者は、「情報発信力の過剰」にそれを見る。インターネットは学術的な情報交換からスタートしたために、すべての参加者が等しい発信力を持つ。その結果、優良なコンテンツを発信し続ける有名人たちも、それを執拗に攻撃する匿名の炎上参加者も同じ情報発信力を持つことになった。それは不都合なのではないか?という主張だ。

そのため、著者は「発信できるのは限定された人たちだが、閲覧は誰でもできる」という半開放のサロンを提案している。批判を行う人たちはそのサロンそのものには書き込めない。もちろん、ツイッターなどで批判を行うことは可能だが、それはあくまでもサロンの外部である。

私は「情報発信力の過剰」がネット炎上につながる、という考えは持ったことがなかったので、新鮮に感じた。確かに、そうかもしれない。本当なら、発言力が、その人のネット世界への貢献度に比例していれば、インターネットにより多くの優良コンテンツが供給されるのかもしれない。

さてここからは、私がこの本を読んで次に何をするのか?という点だ。炎上を起こしている人たちが本当に少数であるならば、情報発信を恐れる理由はないはずである。ネット上の誰かから攻撃を受けたとしても、他の大多数は自分に関心がないか、あるいはむしろ好意的である、と考えることができる。(ごくまれに大規模な事故が起こり、不幸なことになることもあるが、それはもう交通事故のようなものであろう・・・)

ということで、私はこれからは少し勇気をもってネット発信の機会を増やしていきたい。ネット上には実にさまざまな人たちがいて、情報発信を行うことで、自分の視野を広げてくれるような、興味深い人たちに出会える可能性があるからだ。

情報発信の一つの形として、私は最近、毎週土曜日、友人たちと「ラジオ」と称して、Youtubeライブ配信を行っている。さまざまな時事や人生の話題について、友人たちと楽しいトークを繰り広げている。まだ試験的運用なので、ライブ配信結果は限定公開としているが、土曜日の午前10時ころまでには私の Twitter アカウント で配信URLをお知らせするので、もしご興味があればどうぞ。

年齢を小数で考える

誕生日を迎えるたびに、1歳、急に歳を取るのは、ショックが大きい。 それは年齢を整数で考えているからだ。離散的なのだ。 実際には時間は連続的に流れている。本来、年齢は小数で考えたほうがいい。 「私は、23.342歳です」「いまは、47.534歳です」等々。

そこで私は自分の年齢を小数で表示するプログラムを書いてみた。言語は Python

#!/usr/bin/env python3
from datetime import date


def calc_age(year: int, month: int, day: int) -> float:
    birthday = date(year, month, day)
    today = date.today()
    last_bd = date(today.year, month, day)
    if last_bd > today:
        last_bd = date(today.year - 1, month, day)
    base_age = last_bd.year - year
    fraction = (today - last_bd).days / 365
    return base_age + fraction


if __name__ == "__main__":
    print("{:.3f}".format(calc_age(1970, 6, 18)))

calc_age(year, month, day) のところをあなたの誕生日に変えていただければ、あなたの年齢も計算可能だ。 ちなみに私の今日の年齢は50.008歳だそうだ。早くも50歳を1/100近く消費してしまった。こうやって数字で見ると、「今日を一生懸命生きなければ」という気持ちになるというものだ。

調子に乗って、今日が今年の1月1日から何年経過したか計算するプログラムも書いてみた。もちろん、これは1未満の小数になる。

#!/usr/bin/env python3
from datetime import date


def calc_upto_today() -> float:
    today = date.today()
    first_day = date(today.year, 1, 1)
    fraction = (today - first_day).days / 365
    return fraction


if __name__ == "__main__":
    print("{:.3f}".format(calc_upto_today()))

このプログラムによると、今日6月21日は、0.471年ということらしい。今年も早くも半分近く終わってしまったことがすぐわかる。歳を取ると年月が流れるのが本当に早い。流されずに毎日を大切に生きていきたいものだ。

50歳

今日6月18日は私の誕生日。 とうとう50歳になった。 50歳になってしまった、という言い方がより実感に近い。

昨日まで49歳で今日から50歳。 1歳年齢が上がったわけだが、もちろん正確には昨日は 49.997歳で今日は50.000歳になった、というだけのことで、実質的にはほとんど何も変わらない。 去年の誕生日、49歳になったときから、すでに気持ちは50歳に向かっていた。去年の秋頃にはもう50歳になった気分でいた。 私はどうも「50歳」という区切りにこだわっているらしい。 40歳でも60歳でもなく、50歳。 60歳は「還暦」と呼ばれ、世間的にはより大きく取り上げるけれども、たぶん10年後、60歳になったとしても、今ほどの感慨はない気がする。

なぜそんなに50歳にこだわるのか。 それは私には名実ともに「大人になる」ということに思えるからだ。

20歳で成人式を行う。 だが現代の日本において、20歳が完全に大人だと思っている人たちは少ない。 彼らは若者であり、まだ多分に子供っぽさを残している。

私は、若さが好きだ。若者が好きだ。子供ぽいかもしれないが、彼らの持つ、ある種の過剰さ、バランスの悪さ、カオス、といったものを愛している。たぶん、それがイノベーションの源泉になるからだろう。

20代は若者だ。 30代も現代では半分以上、若者扱いされる。 40代は、若者とは言いにくいものの、若者の最後の香りが残っている。

しかし、50代は違う。 さすがに50代の人を指して「若者」とは呼べない。 どんな基準を持ってしても、もう50代は若くない。

私が愛していた「若者ぽさ」との最終的な決別。 そして私は「大人」になる。

50代あたりから、統計的にも大きな病気にかかりやすくなる。一部の人たちは命を落とし始める。これから老化の長い下り坂を少しずつ下っていく。私はもう若者ではない以上、無限の可能性は残されていない。いままで積み上げてきた要素を磨き上げて、完成していくだけだ。それに意味がないとは言わないが、私がかつて愛していていた無限の新しい展開(そんなものは最初からなかったのかもしれないが)はそこにはない。

幼児であれ、若者であれ、大人であれ、等しく有限の命しか持たない存在であることは変わりない。しかし、大人に残された時間は相対的に短い。残り時間をより強く意識する必要がある。私の残された人生で、いったい何を残し、何を捨てていくべきか。お恥ずかしい話、それが私にはまだ整理がついていない。

まず仕事の話をしよう。

私は、いま東京のある会社で機械学習エンジニアとして働いている。この15年ほどずっとウェブエンジニアをしていたのだが、1年ちょっと前に機械学習エンジニアに転向した。

正直、経済的にはウェブエンジニアのほうがコスパは良いし、仕事の幅も広いと思う。あの手のエンジニアリングに対する需要は決してなくなることはないからだ。

対して、機械学習を仕事にするのはハードルが高い。まず、ある程度の仕事ができるようになるまでの勉強量が非常に多い。数学・機械学習理論・プログラミング。それぞれの分野で同時に高い能力を求められる。それでやっとスタートラインだ。その後も、ひたすら論文を読み、Github のレポジトリを調査して、コードを書く日々が続く。それが延々とづづくのだ。綺羅星の如く才能のある若い人たちが集まっており、彼らの仕事ぶりは迅速かつ正確だ。そういう人たちと比較対象になるというプレッシャーの下で仕事を続けなければならない。

同僚たちの能力は段違いに高い。私は、日々、泣きたいような気持ちで仕事をしている。

ではウェブエンジニアに戻りたいのか?答えはノーだ。私はもともとウェブプログラミングの決定論な世界に退屈を覚えていた。それに比べると、機械学習は面白い。何がでてくるかわからない面白さがある(もちろん、それがつらさの源泉でもあるのだが)。

初めて心から興味の持てる仕事をしている気がする。それはとてもありがたい。この先どこまでやれるのか不安もあるが、とりあえず行けるところまで行ってみるつもりである。

というわけで、幸い仕事はまずまず充実していると言っていい。

しかし、人は仕事(≒カネ)のみに生きるにあらず。

幸福度という点を考えた場合、むしろ重要なのはどれほど豊かな人間関係を持つか、という点にある。

残念ながら、今の私はこの点について及第点が取れない。

この数年間、新しい友人が作りにくくなっているのを感じる。いまお付き合いさせてもらっている友人たちは、ほとんどが5年以上前に出会った人たちだ。このままではいけないと思いつつ、忙しい日常にながされて有効な手が打てていない。

この5年間で何が変わったのだろうか?一番の変化は、本腰を入れてITの仕事に戻ったこと、機械学習という長期的な目標を見つけたこと、その結果、経済状況が非常に安定したことだ。 逆に言えば、私の中からある種のカオスが大幅に減ってしまった。「遊び」や「隙間」がなくなった、というか。

生活が自足するようになってしまって、あまり他人の存在が必要でなくなってしまったのかもしれない。以前は、他の人たちと社会や生き方について議論するのが好きだった。私がそういう議論を人生で必要としていたからだ。私はいつも何かを模索していて、新しい可能性を試そうとしていた。

ところが今は、生活に満足してしまい、他の可能性を探さなくなってしまった。それとともに、積極的に他者と話をするという動機も失われてしまった気がする。

友人を作るのに、一番良いのはおそらく趣味を共有することだ。だが、私はどうも無趣味な人間で、仕事かそれに関連する勉強をしていることが多い(唯一の息抜きは、アニメを見ることなので、これが趣味と言えるのかもしれないが・・・)。

人と付き合い、人から学ぶことは人生を豊かにするのは確かなので、何か方法は考えたい。

異性関係についても触れておこう。50代の大人が何を、という気もするのだが、私はいまだに女性に未練を残しているのを認めざるを得ない。女性とたまに付き合ってもあまり幸せな時は過ごせなかった。一度、結婚したものの、あれこれあって2年で離婚している。

おそらく、男性と女性は相補的な関係にあるのだろう。たとえどんなに面倒だと思ったとしても、やはりどこかで異性を求める気持ちは残る。本当はその気持ちに素直に応えてやるべきなのだろうが、私はあまりいろんなことをこじらせすぎて、どうしたらいいのか、いまだにわからない。

若い頃は自分は女性に人気がないと思っていた。それも事実だろうが、それ以上に私が女性を受け入れていなかったのだ。私は、うまく感情をコントロールできず、包容することもできなかった。相手がどうの、というより、私自身の問題だったのだろう。

女性との関係についてはいろいろ思うことがあるのだが、あまり決めつけをしないで、フラットな姿勢で臨んでみるつもりだ。

50代のおける抱負を考えてみようと思ったが何も思いつかなかった。 40代に入ったときも同じように抱負を持とうとしたが、たしか何も思いつかなかった気がする。正直私にとって40代はあまりぱっとしない感じ(30代の圧倒的なはっちゃけぶりと比べると)ではあるが、では、抱負を持てば何かが変わったのか、と言われれば、そんな気もあまりしない。まあ、抱負なんて持っても仕方ないのかもしれない。

ただ、目の前のことを一つ一つ丁寧に取り組んでいこうとは思っている。まずは、仕事が基本。そのうえで、人との関係は大切にする。できる範囲で、少しだけ人様の役に立てる人間にはなりたい。もっとも、あまりこの点を強調するつもりはない。自立して他人に迷惑をかけずに生きていくだけで、95%くらいは人間としての責務を果たしているからだ。

もはや若者ではなく、大人として生きていかねばならないものの、私はまだまだ未熟である。 今後ともどうかよろしくお願いします。