独り言をつぶやく
私はかつてブログで少し人気があったことがあって(と主観的には認識していて)、ブログを書くときにはなにか面白いことを書かなければならないというプレッシャーを感じている。一方で、Twitter にはそのとき思いついたことを思いついたまま、書きなぐっている。Twitter はツィートの前後関係を気にしなくて良いので大変気楽である。
いまは個人の主張をするのにブログを主なツールとして使う人たちが減っていて、むしろ Youtube が主戦場になっている感がある。私は Youtubeに動画を上げることも考えたことがあるが、とりあえず準備が大変そうだ。ブログなら文字を書きなぐればそれで成立するので、動画よりは楽である。
私は今年の6月で53歳になる。人は長く生きるにつれて、経験と記憶が身体の中に蓄積していき、ついそれを語りたくなる。年寄りの話が長くなりがちなのはそのせいなのだ。とにかく中年以降、自分の話し方に注意を払わないと、基本、長々と話すものだと思ったほうがいい。私は特に若い人と話すときには、自分の話が長くなりすぎないように、説教臭くならないように気をつけている(少なくとも意識上は)。その努力が実っていることを祈るばかりだ。
その代わり、ブログでは自分がリアルでは話せない、こまごまとした思いを書き綴ってもよいのかもしれない。ここなら話を書きなぐなっても、読者は途中で読むのを辞めればいいだけのことだ。別に上司が業務で送ってきた文書でもない。読んでも良し、読まなくても良し。その程度の文章である。だらだら落ちのない話を書いていくので、面倒になったらいつでも読むのをやめていただきたい。
最近の自分について少し語ってみよう。私のツイートを見ている方々はよくご存知だと思うが、私は、いま日本の将来につくづく絶望している。EV化に乗り遅れた自動車産業が数年後崩壊しそうであるのと、長年の放漫財政を支えてきた日銀の財務がいよいよ危うそうだからだ。いまは、まだどうということはない。だが、これは、不謹慎な例えかもしれないが、予後の悪いがんが見つかったばかりの患者のようなものだ。がんは自覚症状がないことも多い。数年後にはかなりの確率で致死的であっても、いまはまだ元気だし、生きている。いまの日本はそんな状態に思えてならない。
まだ、身体は動くわけだし、死んではいないのだから、何らかの治療法はないのか、とは思うだろう。これが本当のがん患者なら、すぐ入院して、抗がん剤治療やら、手術やらするところである。ところが、私がより絶望するのは、日本全体が現実否認状態に陥っていることである。おそらく各分野の専門家は薄々気づいてはいるのだと思う。だが、真実を暴き立てて、場の空気を乱すことを恐れている。あるいは、単純に、その人の地位を危うくするために、口をつぐんでいる。つまり、がん患者の例えを続ければ、検査の結果、がんが見つかったというのに「そんなものはない」と現実を否定し、治療も拒んでいるという状態なのだ。ただでさえ、ほぼ手遅れなのに、治療さえしなければ、後は死を待つのみではないか。
おまけに、私が50代に入って、おそらく加齢に伴う身体の変化が起きていることも関係している。コロナ以前は、シェアハウスに住んでいたが、コロナがきっかけでいまは都内のワンルームマンションに住んでいる。長らく人と会わない生活が続いて、いまや生活が大変淡白なものになってしまった。若かりし頃のように、異性にときめきを感じることも少なくなり、改めて、自分が何のために生きているのかよくわからなくなった。この数年は真面目に働いているので、経済的には生活に不安はない。だが、その一方で、次に何をすべきという目標も見失ってしまったように思う。
日本の将来への絶望と、加齢に伴う感情の平坦化で、いま私はたゆたう深海魚のように、日々を淡々と暮らしている。決して不幸ではない。だが、強烈な幸福感も感じない。落ち着いた日常。そう考えるとまんざら悪くもないのかもしれない。だが、自分の老化と日本の衰退がちょうど時期的に重なり、いまが一番いいときで、未来はただ悪くなっていくだけだという暗い気分を拭えない。
どうなんだろうね。
老化が進めば確実に心身の機能は衰えていく。病気もしやすくなるだろう。だか一方で、精神的には成熟が進み、より深い幸せを感じられるようになるのかもしれない。そう考えると一概に悪いことばかりではない気もする。
日本の未来も、暗いことは暗いのだが、物事は永遠に悪化することもない。自然はバランスを取ろうとする。ある物事が一方方向に進むと、それを引き戻そうとする力も働き始める。それが自然の摂理だ。日本が経済的に衰えていけば、日本は海外に援助を求めざるを得なくなる。海外から見れば、日本人のリソース管理に無駄があるわけだから、それをうまく使える外国人にはビジネスチャンスがあることになる。外国の企業やら援助団体がやってきて、日本で活動するようになるだろう。先進国時代を知らない若い日本人たちは、先入観を持たず、そういう外国勢力に学び協力しながら新しい日本を作っていくのだろう。
私はそのころ高齢者になっていて、新しい日本の建設に貢献はできなくなっているかもしれないが、それも仕方ない。そうやって、世代は交代していくのだ。
・・・とそんなことを反芻しながら最近は生活している。
とりあえずは私は今年はシェアハウスに戻ろうかと思っている。 それをきっかけに人生の新しいフェーズに入っていけると良いのだが。
退職しました
2017年10月から2022年11月30日までPKSHA Technology 社に勤務していました(最初の1年は業務委託、その後、正社員)。 いまは脱炭素文脈のエネルギー関係のプロジェクトに業務委託ソフトウェアエンジニアとして参画しています。
PKSHA は AI を使った問題解決をメインにする会社で、社員の方々は皆さん大変優秀でした。特に機械学習エンジニアの人たちは本当に優秀で私もトライしたもののとても歯が立たなかったです。自分の数理的センスに限界を感じて、ウェブエンジニアの世界に戻ってきました。
圧倒的に優れた人たちの間で揉まれるという経験は私にとってかけがえのないものになりました。自分の技術的能力の限界を思い知らされました。いままでの自分はとにかく技術で秀でればなんとかなるという気持ちがあったのですが、そもそも自分がいくら頑張っても追いついたり追い越せたりすることができない人たちがいるということを肌で感じることで、今後の目指すべき方向を真剣に考えざるを得なくなりました。
いま自分が考えているのは、自分が優秀とかどうとか関係なしに、何か社会的に価値のあることを達成する手伝いをできれば、という気持ちです。自分が重要なのではなく、自分の属するプロジェクトの成功こそが一番大切なのです。そのために自分がどんな役割を果たしても構わない、そういう気持ちになっています。
考えてみれば、ほとんどの人々が人生の過程で自分より圧倒的に優れた人たちに出会い、自分の能力的限界を思いしらされることでしょう。しかし、それでもなお、その人たちなりの価値観に基づいて人生を歩んでいきます。私は、そういう意味ではようやく普通の人生のスタートラインに立ったとも言えるのかもしれません。
私はいま特にITを使った再生可能エネルギー中心のエネルギー体系への転換に興味を持っております。当面は私はフリーランスとして活動してきますので、どうかそういう分野に興味があったりご活動されている方がいらっしゃればお声をおかけください。よろしくお願いします。
EV化に遅れて沈んでいく日本
Twitterがいまアレコレあって書きずらいので、facebook に一時退避しているのだが、ブログのほうもちょっと書いてみる。
まあ、ブログの方はなかなかフィードバックが感じられないので(それでいて炎上するときは恐ろしく燃え上がるのだが)今一つ、やる気が出なくはあるのだが、いまの気分を書きなぐる Twitter 的な気楽な場所と再定義して、書いてみる。
韓国へ行ってきた。テスラモデル3のヘビーユーザーの友人がいて、彼のモデル3に乗せてもらうためだ。
モデル3のユーザーインターフェイスは素晴らしかった。オートパイロット(AP)で、車線変更を楽にできる機能があるのだが、そのUIがあまりに使い勝手が良くて感動した。またスーパーチャージャーで充電するときの手順があっけにとられるほど簡単で、これにも感動した。韓国にはスーパーチャージャーが至るところにあって、テスラの充電インフラは素晴らしかった。
ただ、テスラには一段使い勝手が劣るものの、e-Pit という韓国独自の高速充電ネットワークもあったし、政府が設置したらしき、低速(50KW)の急速充電器もそこかしこに配置されていて、日本とは比較にならないほど充実していた。
道路を走っていても、そこかしこに電気自動車を見かけた。韓国ではゼロエミッション車(電気自動車や水素燃料電池車)は青のプレートを付けていて、他の種類の車と区別されているので、一目でわかる(各種の優遇措置が実施しやすいのだろう)。テスラやヒョンデの電気自動車を多く見かけた。意外だったのが Nexo というヒョンデの水素燃料電池車も何度か見かけたことだ。ひょっとして日本でトヨタの水素燃料電池車であるミライを見ることより多いかもしれない。
韓国に初めて行ったのは30年前だった。そのころはいかにも発展途上国という風情で様々な意味で日本との格差を感じたものだった。しかし、その後紆余曲折はあっても発展を続け、いまやほぼ日本に追いついたか、部分的には日本を追い越していってしまった感がある。ソウルの街はすっかりあか抜けておしゃれになり、東京と何も変わらない(部分的にはソウルのほうが豪華な感じさえする)。各地で建設ラッシュが続いている。物価も20年前は日本の半分だったのが、今回は円安もあって、体感では日本の1.1倍くらいという感じだった。10年後には1.5倍くらいになっているかもしれない。
韓国の発展ぶりと比較して日本の停滞を強く感じた。衰退する日本にこれから訪れる運命を思って、暗い気持ちになった。
P.S.
www.nikkei.com こんなニュースを見るとますます日本の自動車産業の先行きが暗く見える。私にとっては周知の事実であり、日本の自動車産業の崩壊をさらに確信させる材料でしかないが。
会社に残ることにした(当面はお試し期間だが)
先日、会社を辞めるべきか否か - elm200 の日記というエントリーを上げて、自分の仕事をめぐる状況を告白した。その後、会社の人と話し合いを積み重ね、新しい可能性が見えてきたので、もう少しだけ、この会社で働いてみることにした。
とあるマネジャーが主導する新規プロダクトがあり、それをソフトウェアエンジニアとして一緒にやってみないか?というお誘いを受けたのだ。それは、ある業界に対するマーケティングツールで、すでに潜在顧客が実際の関心を示し始めていて、それなりに有望に思えた。
大昔、私はあるスタートアップに参画したことがあり、それはいろんな理由で結局うまくはいかなかった。新規事業はリスクの高いものであり、うまく行かないことのほうが多いのは確かだ。しかし、そこから多くの学びがあるし、チャレンジすること自体は、人類社会のためにとても大切なことだと思う。
私は所属企業が情報公開へ後ろ向きなことに失望しているが、この新規事業は他の会社とのジョイントベンチャーであり、所属企業の雰囲気を少し薄めることができるのではないか?とも思った。
ただ、当面は「お試し期間」になる。そこで会社または私が、難しいと判断すれば、私は会社を辞める可能性がある。
私は、人生のほとんどの期間をほぼ一人で生きてきた。子供時代は、いやいや学校組織に属していたが、社会人になって最初に入った会社(都市銀行)は半年で辞めてしまい、フリーターになった。その後、重層下請構造の最末端の零細企業でプログラマーとなり、そこから仕事をしたり辞めたりを繰り返して、45歳になった(6年前だ)。このときまでに、私の貯金は底をつき、真面目にフルタイムでソフトウェアエンジニアをする以外に食べる方法がなくなった。それでも最初はフリーランスのエンジニアだったが、のちにこの会社で正社員になった(3年前のことだ)。
正社員という働き方を3年もできているのは驚くべきことだ。ただ、私はずっと一人で生きてきたので、ある程度、かっちりした組織の中でどう振舞うべきかよくわからない。特に、ブログのような個人的活動を組織の一員という立場と調和させたらいいのかわからない。誰も、傷つけないように、批判されないように、と考えれば、一切何もしないというのが一番安全なのかもしれない(実際、そう考えて多くの人たちが沈黙するのだろう)。
ただ、それではまさに「社畜」ではないか?私は、いまたまたまこの所属企業に属して働いているけれども、それ以前に私は人類の一人であり、この人類社会に直接に所属している。だから、私は会社の一員としての立場より、人類の一人という立場を優先したい。もちろん、法令は順守する。職務上漏らしてはならない秘密は公開しない。だが、仕事の内容について全く何も話せなければ、同じく人々の重大な秘密を取り扱う医師や法律家という人たちも、彼らが扱うケースについて一言も話せないということになるだろう。具体的な事物との紐づけができない程度に抽象化して、一般論として共有することは人類の福祉にとって有益なのではないだろうか?
会社なり誰か他の人なりから怒られるまで、私は、極力、自分が考えたことを公開していくつもりだ。正直、私のような従業員が不都合なら、会社からはっきり引導を渡してほしいと思う。その際は、私はこの会社を離れて別の場所に行く。本当の自分を隠したまま本来自分を受け入れてくれない場所で働くより、本当の自分をさらして、なお自分を受け入れてくれる(むしろ歓迎してくれる)場所で働くほうがよい。この世界にはそういう場所が必ずあると信じている。
EV化に乗り遅れる日本
欧州を筆頭に世界がEV化に向けて舵を切り始めている。
2050年カーボンニュートラル目標に向けて、世界で運輸部門のゼロエミッション化の流れが加速している。欧州連合(EU)の欧州委員会はこのほど、温室効果ガスの大幅削減に向けた包括案の中でハイブリッド車を含むガソリン車など内燃機関車の新車販売について2035年に終了する方針を打ち出した。世界最大の自動車市場である中国も2035年までに新車販売のすべてをEVなどの新エネルギー車やハイブリッド車にする計画だ。米国は、カリフォルニア州が35年までにガソリン車の新車販売を禁止し、ニューヨークを含む米12州の州知事らと共に国全体での同様の規制を求めている。
一方、日本では、とかくEV懐疑派が多い。筆頭は、トヨタ社長の豊田章男氏。トヨタは当面HVに注力し、EVやFCVなども中長期で推進する「全方位戦略」で行くという。
豊田氏は、自らハンドルを握ってサーキットを走るような車好きの人。結局のところ、機械機械していて、熱と騒音を出して疾走するガソリン車が好きなんだろうと思う。彼は心底では、EVをつまらない車だと思っているのではないか。そして、世界がEVに向かう速度を見誤っている。
トヨタは2030年に電動車を800万台売るという。問題は内訳だ。そのうちHV,PHVが実に600万台を占める。私から言わせればHVなんてただのガソリン車じゃん、電動車にカウントするなよ、という感じなのだが。EUが2035年にHVを含むを全ガソリン車を販売禁止にするというのに、その5年前にそんなにHVが売れるだろうか?販売そのものが禁止されるかなり前から、下取り価格の下落を懸念して、ガソリン車の売れ行きは相当減るのではないか?
そんなトヨタに頼まれたのか忖度したのか、経産省も「EVもHVも水素も」と全方位戦略だそうだ。「二兎を追う者は一兎をも得ず」というではないか。EU・中国等、世界全体がEVに全振りしているのだから、日本も単純にそれに倣えばよいのに、どうして独自路線を歩みたがるのか?こんな落ち目の国が勝手なことをやっても世界の国々がついてきてはくれまいに。
(水素は扱いが面倒すぎて、水素社会が実現することは120%あり得ないと私は思っている。一部の周辺的な技術は実用化されても、水素がエネルギー体系の中心に来ることは絶対にありえない。投資するだけ無駄だと思っているが、なぜこんな筋悪の技術に夢を見たがる人たちが絶えないのか理解できない。たぶん、原子力と同じで巨大な装置産業が必要であり、政治を動かすことでおいしい思いができる人がいるから、という大人の事情があるのだろうと推測している)
いつの時代にも、新しい技術への懐疑派はいるものだ。たとえば、1990年代後半にもインターネット懐疑派がいた。「インターネットは一時の流行り」「おもちゃ」「実用にならない」等々。私は、ずっとインターネットの可能性を一貫して信じていたが。時代には必ず流れというものがあり、それに逆らっても所詮無駄な骨折りで結果は変わらない。ならば、その流れに乗ったほうが良いと思うのだが……。
私がなぜEVにこだわっているかというと、実はこれから20年の経済変革の中心に位置するのがこのEVだと思っているからだ。自動運転と再生可能エネルギーの普及を通じて経済全体の構造を作り替えていくものだろうと。もはやIT技術単体はあまり重要ではない。スマホは完全にコモディティ化しているし、スマートグラスもまあ・・・という感じ。"the next big thing"は必ずEVの周辺にあると信じている。
個人的動機もある。EVに関しては、私は乗り心地が最高だから普及してほしいと思っている。特に再エネ大好きなので、これと組み合わさったら最高だな、と。私がEV化を主張するのは、正直、私自身がそういうEVが普及した世界に住みたいという希望があるからだ。これがポジショントークであることは否定しない。
ただ、同時にマーケットやネットワーク外部性の力を信じているので、一度物事がある方向に向かい始めると、加速度的にその分野が成長していくことはあるのではないか、とも思っている。いま流れはEV+再エネに来ている。そうなると、小さな技術的障害はどんどん乗り越えていってしまうものなのだ。大勢の人たちが大量の資金を使って、いろんな手法をどんどん試していくからである。したがってEV懐疑派が「二次電池を作るときにCO2を大量に出すじゃないか」とか「内燃機関もエネルギー効率が上がっていて」などと各論で攻めてきても、こちらかすると「だから何?」という感しかない。
日本はこの30年間、賭けるべき技術を間違い続けてきた。だから、今回もHVという古い技術にこだわり、水素などという無駄な道草を食って、EVや再生可能エネルギーへの投資が遅れている。私はもうこの点はあきらめている。日本経済には未来がないということをただ淡々と再確認するだけだ。おそらく日本円がさらに安くなっていくのは確実だと思われるので、せいぜい外貨建ての資産を育てていき、来るべき日本経済のさらなる低迷に各自備えるしかないと思う。
浅草旅行
かなりヤケになって書いた「退職前エントリ」が、妙にバズってしまい、いろんなコメントをいただいたが、励まされる内容が多くて、とてもありがたいと思った。最近のインターネットは世知辛い話が多いが、まだまだ捨てたものじゃないと思った。
会社の同僚やマネジャーも私のエントリを読んでいて、心配して声をかけてくれた人もいた。つくづく良いホワイトな会社だと思った。ありがたい。
まだ辞めるかどうか結論は出していない。今日明日の週末、改めて考えてみるつもりだ。来週中には最終結論を出そうと思っている。
というわけでこの週末、私は旅に出た。行き先は……東京。浅草にやってきてバックパッカーズに泊まることにした。私は東京在住なのでわざわざ台東区で泊まる必要もないのだが、booking.comを見たらなんと1950円で泊まれるところがあったので、気分転換に泊まってみることにした。
インバウンド需要向けのきれいなバックパッカーズが浅草界隈にはたくさんある。ここカオサン東京オリガミという宿もその一つだ。8人一部屋のドミだがとてもきれい。ドミというよりカプセルホテルに近い寝台である。
ただ驚いたことに夕方の有人チェックインタイムが15時から17時までしかなかったこと。17時を過ぎたらメールで通知された暗証番号を入り口で入力して勝手にベッドまで行って寝てくれということらしい。そのことを知らなかったので17時過ぎに入り口でホテルに電話すると、店じまいしようとしていた受付の人がドアを開けてくれた。
受付の若い女性の日本語にはアジア系の訛が。韓国人か中国人あたりだろう。たぶんこのホテル自体も外国人経営なのかもしれない。ホテルは、新しくてきれいだし、運営もスマートで合理的だ。人件費節約で夕方2時間しか人がいないのも面白い。新しい風を感じて清々しかった。
このホテル、浅草寺のすぐ北にあるのだが、ここまでくるのに、都電荒川線の三ノ輪橋から、歩いてきた。途中、いわゆる山谷地区を通ってきた。確かに簡易宿泊所は多くあったり、コンビニの前で道路に座り込んで酒盛りしたりするオッチャンがいたりはしたが、基本的には普通の住宅街、という感じだった。
かつて高度成長を支えた、この街に住む労働者たちもいまはすっかり年老いている。簡易宿泊所もみな古びている。普通のビジネスホテルや外国人向けのパックパッカーズに衣替えしているところも多いらしい。近い将来、こうした簡易宿泊所も消えてゆくのかもしれない。
米国だとスラムはとことん荒れていたりするのだが、日本だとなかなかそこまでの激しい貧富のコントラストは少なくとも街の表面からは見えないことが多い。それが良くも悪くもすべてを曖昧なまま包み込んでゆく日本社会の特徴なのかなと思った。
会社を辞めるべきか否か
私はいまある機械学習系の会社で正社員として働いている。
この会社に対する思いをあえてブログで公開してしまおうと思う。 この数年間ずっと感じてきて、いまいろんな矛盾がクライマックスに達しており、辞めるべきかどうか真剣に悩んでいるのだ。
この数年間、私はほとんど何もネットで発表することができなかった。 私の場合、ネットに対しては、自分の私的な思いをぶちまけるスタイルなので、どうしても自分に関係する事物に対して言及せざるをえなくなる。 ところが正社員として働くといろんな関係者とのいろんなしがらみがあり、どこまで何を言ったらいいのかわからなくなる。 そうなると何も言えなくなってしまうのだ。
いまのインターネットは何かと炎上騒ぎが多い。変な形で注目されると自分とはまったく立場の異なる人たちが大勢押し寄せてきて大騒ぎになってしまう。炎上マーケティングをしている人にとってはコストの一部かもしれないが、商売抜きでネットに関わっている人間にとっては、神経をすり減らすことになる。
私は公式には自分の所属企業を明らかにしていない。明らかにした上で、「これらは私的意見であり、所属企業とは関係ありません」と断りを入れれば、それで良いのかもしれない。それでも、この数年間、もし自分が書いたことで何らかの副作用が起こることを恐れていた。恐れれば恐れるほど何も書けなくなった。
書けなくなると精神が閉塞した。自分の魂の深い部分とのつながりが断ち切られたような、実存的な寂しさを感じた。下世話な言い方をしたら、「精神的便秘」とでも言おうか。世の中に向かって、自分をはっきり主張できない感じである。
そうなってしまった一つの理由は、私の所属企業の雰囲気もあると思う。社長は、外資系コンサル出身の人で、ノリはバリバリのビジネスマン。ウェブエンジニアのオープンソースや情報共有を是とする雰囲気ではなく、情報を囲い込み特許を取り知財をライセンスすることで儲けようという指向性を感じる。それ自体、責められるものではなく、金儲けという目的からすると正しいのかもしれない。ただ、私の指向性とは異なる
そういうわけで、そういう会社に集まってくる人たちもまた、積極的にネット上で自分のプレゼンスを主張する人たちではない。一部の人たちは匿名かつ会社とのつながりは隠して、ネット上で言論活動を行ってはいる。ただ、私は昔、外国にいたときのノリで、あくまでも実名でやっていきたいと考えているほうだ。顔出しもしてしまっているしね。(だいたい外国の人たちは、実名顔出しで活動していることが多い(匿名な人もいないわけではないけど)。でも日本人は本当にそういう人たちは少ないよね……)
まあ、こんなそんなで、私はどうもネットで自分を表現することが全くできなくなってしまった。せいぜいやっていたのは時事問題について Twitter やはてなブックマークで評論する程度。それも1年くらい前からあまりできなくなってしまった。
私の所属企業の名誉のため言っておけば、この会社、とてもいい会社である。社員の人たちの人柄は良い。技術者の技術力は極めて高いし、営業の人たちも非常に優秀で顧客対応も素晴らしい。正直、非の打ち所がない。
ただ、正直、そういうあまりにそつなくビジネス的な部分、というか、広く社会への情報共有を是としない部分が、自分の価値観とは合わないのだ。
価値観。
先日見たこの動画、とっても説得力があったのだが、「能力やら報酬やらそういう面ではいくらでも会社は従業員に便宜を図れる。ただし、価値観の不一致だけはどうしようもない。価値観が合わないなら転職すべき」という主張をしていて、本当にその通りだなと思った。
そう考えるとやっぱり転職または独立すべきなのかな、とも思う。
所属企業の機械学習エンジニアの人たちは、本当に優秀で、私は正直ついていけていない。ある大きなプロジェクトが終わったタイミングで、「もう綱渡りみたいな仕事を繰り返してはいけない」と強く思い、行動を起こすことにした。この会社で私のような実力の者が機械学習エンジニアのポジションにいるのはふさわしくないと思った。だから、それは辞めて、機械学習の周辺にいるエンジニア(機械学習モデルを組み込むとか、APIの受け口を作るとか)になろうかとも思った。ただ、それらはできることかもしれないけど、本当にやりたいことだろうか?いま一つ自分でもわからない。
私はどうも顧客に喜んでもらいたいと思っているようだ。ただ、機械学習プロジェクトは成功率が低いこともあって、この数年間で私は成功の実感を持てなかった。AI技術は、現実の様々なタスクに対する適用の仕方が一番重要である。逆に言うと、正直、機械学習モデル自体はそこまで高度でなくても構わない。それより、データの質と量とか、どの業務にどのように適用するか?とかそういうほうが重要であることを経験を通じて知った。本当は、もう少し簡単なプロジェクトで定型的な機械学習モデルを使って手堅くタスクを解いていくということをやってみたかったのだと思う。ただ、この会社は高度なAI技術を提供することを売りしている(実際、エンジニアは優秀なのでそれができる)から、私の思いとは整合しない。
これから数日、次の仕事をどうするか会社と話し合うことになる。 場合によっては辞めることも考えている。 というか、たぶん辞めるべきなんだろうと8割くらい思っている。
正社員というのを初めて長く(3年間)やって、そのうまみを知ってしまった。 こうやって毎月、同じ額の給料が振り込まれるって本当にありがたいんだよね。 それ以前は、フリーランスでいるのが当たり前だったから、そんなことを思いもしなかったんだけど。
安定した定期収入を失うのは痛い。たぶん辞めるべきと思ってもなかなか「辞めます」と言えない理由の8割くらいは、このカネへの執着なんだろうと思う。 でも、経験上、カネのために仕事をし始めると、その後、ロクなことが起こらないことを私は知っている。もちろん、仕事はカネを稼ぐためというのが基本なのだけど、それでもなお「その仕事をやる意義を感じられるか?」という点を満たさないと楽しく仕事ができず、長続きしないのだ。
これから数日で何が起こるのか自分でも予想がつかないが、何とかするしかないし、まあ、何とかなるだろうとも思う。 「明日は明日の風が吹く」の精神かな。