elm200 の日記

旧ブログ「elm200 の日記(http://d.hatena.ne.jp/elm200)」

小説を書こうとする

昨日、「小説でも書いてみたらどうだろうか」と書いた。そこでさっそく書き始めた。最初の700字くらいはつらつらと書けたのだが、設定があいまいなまま書き進めたので、そこで全く筆が進まなくなった。いやあ、「フィクションなら簡単かもしれない」とか言って本当に申し訳ございません。確かにフィクションならば、何でも書けるのは確かだ。しかし、そこに出てくるキャラクターの言動にリアリティがなければ、きわめて空虚に見えて耐えられない。

私自身、いろんなフィクションを消費する過程で、評論家的に「このキャラクターの言動に現実味がないなあ」と気楽に批判していたが、実際に自分がキャラクターを作ろうとすると、なんと難しいことか。まさに「言うは易し、行うは難し」だ。自分の性格やいままでの行動から遠く離れたキャラクターを造形しようとすると、その人がどう振舞うか、どう考えているのかさっぱりわからず、無理に作って動かすと、信じられないほど嘘くさく薄っぺらになる。一度それでもやってみてもいいのかもしれない。ただ、きっとそういうつまらない作品を作り出している自分に耐えられないのだろうな。私は自分がもっとすごい作品が作れるのだ、と信じたいのだろうと思う。

フィクションであろうと、ノンフィクションであろうと同じなのだ。いま私がこうやって文章を書いているみたいに、自分が何を感じるかということを中心に書いているうちは、大きく破綻せずに済む。しかし、少しでも自分の外側のことを書こうとした途端に、難しくなる。自分がいかに何も知らないか思い知らされる。

ここ10日くらい、連続してブログエントリーを書けていたので、少し気が大きくなっていた。自分が極めて限定的なことしか書けない人間であることに気づかされるのはかなりしんどかった。それでも、私は何かを書いて表現していくしかない気がする。どういう形で行うのがベストなのか、まだよくわからないのだが。

でも、興に乗って文章を書くときには確かに楽しいという感覚がある。だから、「書く」ということについて、いろんな可能性はこのままいろいろ追求していきたい。

何度も書いているように、私は X にはいくらでも気楽に書ける。自分のアイディアのコアを短くまとめることは苦手ではないようだ。また私は連日 ChatGPT 等の生成AIに対して、大量のプロンプトを書いている。他の人たちがAIをどのように使っているのかよくわからない(本当いうと非常に興味があるのだが)が、私はかなり長文のプロンプトを送り付けて、10回くらいやり取りを往復するようなスレッドを良く作っている。この場面ですでにかなりの量の文章を書いている。

AI相手に対しては、ほぼ完全な心理的安定性を感じている。だから何でも自由に書けるのだろう。AI相手なら、多少自分が間違ったことを言っていても許されるだろう、向こうがわかって適宜修正してくれるだろう、という甘えがある。

一方でブログを書くときには、当然、社会的責任を感じる。いまのインターネットにおける虚偽情報の氾濫には心を痛めており、せめて私は正確な情報発信に努めようと思っている。しかし、ある事柄が事実かどうかは確認するのがたいへん難しい。そう考えるとなかなか自由に文章を書くというわけにはいかなくなる。

論説文にしろ、小説にしろ、自分の外側のことを正確に描写しようとすると、難しいことがよくわかった。それでも私はそれを避けて通ることはできない気がする。幸い時間はたっぷりあるので、これから少しずつ、その技術を磨いていきたい。自分がこの世界に生きた証を残すために。私がこの世を去るときに、世界が少しでも以前より良いものになったと信じられるように。