elm200 の日記

旧ブログ「elm200 の日記(http://d.hatena.ne.jp/elm200)」

自分が能動的に社会に働きかけていくということ

ブログをそれなりの頻度で更新しようと思いつつ、なかなかそれができていない。今日は最近考えていることを書いてみよう。

私は今年の6月で48歳になった。48歳!数字だけを見るとだいぶ歳を取った気もする。たしかに若い頃に比べればいろいろ身体の変化も感じることがあるし、それだけの年輪を重ねてきたという実感はある。その一方で、精神にはまだ若々しい、あるいは未熟な部分も残されていて、48歳だからといって枯れ切っているわけでもないのだな、という風にも感じている。

私は物心ついたころには、すでにひねくれた子供だった。今思えばその原因らしきものは思い当たるがそれについては詳述しない。いずれにしろ、私は自分の周囲の環境と直接的なコミュニケーションを取るのが難しかった。あるものが欲しければとりあえず「それが欲しい」と言ってみればよいのに、そういうことができなかった。周囲から私への働きかけに対しても、適切に応答できなかった。うまくコミュニケーションが取れれば、周囲の私に対する対応を変えていくこともできたかもしれないのに、私はそれらの物事を変化しようのない所与のものとして受け止め、内面的に悩み続けた。いろいろ不幸な事情が重なっていたのだろう。

私は、かねてからブログで日本社会を批判してきた。だが、その批判のかなりの部分は、その子供の頃のひねくれたコミュニケーションの延長線上にあるのかもしれない。私は、自分で自分の生きる環境を選びとることができる大人になっているのにも関わらず、心のどこかの部分は、親もとで暮らし自分で環境を選択できないまま、もがき続けた子供時代にまだ生きているような錯覚を持ち続けているのかもしれない。

私は技術屋なので、技術的な事柄については、全てが可変であることを知っている。いまは技術的にある目標が達成できなかったとしても、それはたまたまいまの技術水準がそうであることを示すにすぎず、未来の技術革新によって可能になるかもしれない。ところが、不思議なことに、技術に疎い一部の人たちは、常に現在の技術が所与(不変)のものとして、社会を論じようとする。おそらく、彼らが技術の動作原理を理解したことがなく、またその動作原理に基づいて、技術的な改良ということを行った個人的な経験がないことに基づいているのかもしれない。

ただ、私はその一方で、社会的な事柄については、その技術に疎い人たちが技術的進歩に対して取るのと同じ態度を取っているのかもしれない。日本社会の諸様相、あるいは、自分の周囲の社会的環境といったものも、実は、決して不変なもの、あるいはただ受動的に甘受しなければならないものではなく、絶えず変化していくし、また、小さいながらも自分の意志によってある程度までは変化の方向性に影響を与えることもできるはずなのだ。私はどうもそういう方面の発想ができない個人的偏見を抱えているらしい。それはおそらく子供のころ、自分の周囲の人たちとうまく意思疎通できず、有効に周囲に働きかけることができなかったという個人的な経験(成功体験の欠如)に基づいているように感じている。

確かに、日本社会の抱えている問題は大きい。

失敗の本質―日本軍の組織論的研究 (中公文庫)

失敗の本質―日本軍の組織論的研究 (中公文庫)

この「失敗の本質」で描かれているような問題は、いまだに日本社会の根深く残っており、それゆえ、いま日本社会全体としては、太平洋戦争に続く第二の敗戦に向かってひた走っている。個人では直接には抗いようのない大きな力がここに働いている。

Imagining Japan: The Japanese Tradition and its Modern Interpretation

Imagining Japan: The Japanese Tradition and its Modern Interpretation

  • 作者: Robert N. Bellah
  • 出版社/メーカー: University of California Press
  • 発売日: 2003/02/26
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あるいは、米国の宗教学者であるロバート・ベラーの書いたこの本を読んでも、日本的なものがいかに根深く容易に変わりうるものではないことを再確認させられる。

徳川時代の宗教 (岩波文庫)

徳川時代の宗教 (岩波文庫)

読んだことはないけれども、日本語で読めるものでは、この本も良さそうだ。

ただ、同時に文化や民族性といったものも、完全に不変ではなく、長い時間をかけながら少しずつ変化していくのも事実だ。まして、いまは、インターネット上で世界の隅々まで一瞬で情報が駆け巡り、航空機が世界中を行き交い、あらゆる地域の人々がお互いに影響を与え合う時代だ。少子高齢化が進む日本では、今後、若い外国人の人たちに大勢日本に来てもらい、次世代の日本社会の一翼を担ってもらう必要も出てくるだろう。ある種の「原型」としての民族性のしつこさを決して軽視はできないが、変化していく部分が全くないと悲観するのも早計である。

私は、48歳になった。ほぼ半世紀生きたことになる。そろそろ私は長い「幼年期」を脱して、大人としての責任を担い始めるべき時なのかもしれない。大人になるというのは、自分の背負っているものについてすべて自分で引き受ける覚悟をするということだ。誰か他の人のせいにしないということだ。自分のできることはもちろん小さなことに過ぎないが、同時に本気で取り組めば、ほんのわずかだけこの現実の社会を変えることになる。社会というのは個人の集積で成り立っており、私たち一人一人が即社会の一部であることは自明である。そういう一人一人が自分自身のその周辺を変化させれば、それは小さいながらも社会が変化したということである(もちろん、社会には大きな慣性が存在するので、せっかく個人が起こした小さなよい変化も、再び押し流されて元に戻ってしまうということもよくある。だが、同時に新たな傾向性として定着していくこともある)。

当たり前のことだが、人は自分のできることしかできない。だが、逆に言えば、どんなに小さくとも、自分にできることさえすれば、それは人として生まれてきた使命を十分果たしたと言えるのではないか。まずは、身近なことから始めていこうと思う。自分の仕事や私的な人間関係において、他者に奉仕する心を持つこと。独善に陥ることなく、緊密な意思疎通を図りながら、意見を集約して、よい変化を起こしていくこと。学習や運動を通じて、可能なかぎり自分の頭脳と身体をよい状態に保つこと。私のしたことなど、やがて忘れ去られていくだろう。意味などないのかもしれない。だが、あるいは別の形に姿を変えて、密かに後世に伝えられていくのかもしれない。それは自分には制御できないことであり、深く考える必要はないだろう。

自分のできることを少しずつやっていこう。無理せず焦らずに。そんなことをいま私は考えている。

アニメを見るのをやめて、Vtuber を見始めました

なんとなく恥ずかしかったので、あまり公言してこなかったのだけれども、この3年くらいは、私はアニメをすごく良く見ていた。いわゆる深夜アニメ。どんなジャンルと言われるとよくわからないが、結果的にざっくり言えば、萌えアニメが多かった気がする。私は、あんまり突飛な設定のファンタジー物は好きではないので、現実を舞台にした作品というと、ほとんどが萌えアニメになってしまう。個人的には、京都アニメーションの作品が好きだったかな。響けユーフォニアムとか。

アニメを見るのは楽しかったし、いろいろ人生や社会を学ぶことができる作品もあった(SHIROBAKOとか、ちょっと古いけどプラネテスとか)。ただ、男性向けアニメの多くの作品における女性観に馴染めなかった。あまりに男性の妄想に忠実すぎるというか、都合が良すぎるというか。リアリティがまるで感じられない作品が多かった(もちろん全部じゃないけどね。いまやっている「ヒナまつり」の女性たちはなかなかリアルで良いと思う)。

たまたま今年4月からの期のアニメがあまり興味が持てなかったこともあり、去年の暮あたりからぼちぼち見始めたバーチャルユーチューバ(Vtuber)を本格的に見始めたのだけど、これが大変面白い。最初、ミライアカリとかキズナアイとか一般的なものから始めて、富士葵の素晴らしい歌声にやられた。だが、本当にやばかったのは、じつは「にじさんじ」勢だった。チープな2Dの絵を使って生配信をする人たちの集団なのだけれども、素人くさいところがかえってすごく生々しく、それぞれの個性が良く出ていて、面白い。にじさんじには、私も他の人たちと同じように、いちばん人気の月ノ美兎から入った。この「自称」女子高生は、実に素晴らしいエンターテイナーで、サブカルに造詣が深く、語りの切れ味が実に素晴らしい。彼女の企画の一つを通じて、こんどは鈴鹿詩子というVtuberを知った。彼女は、腐女子であり、BLについて実に生き生きと語っている。まあ、これらはほんの一例で、とにかくさまざまな Vtuber たちの個性が炸裂しているのがこの2018年の現状なのである。

あんまり他のものを腐しても仕方ないのだが、正直、現在の生き生きとした Vtuber 現象と比較すると、いまの日本のアニメはいかにもマンネリで、特定の、カネを落としてくれそうなファン相手に特化しすぎている感があり、ずいぶん興味が薄れてしまった。人気 Vtuber は現在のところ女性のほうが多いのだが、アニメの女性キャラよりずっとリアルな女性に近く、個性があって魅力を感じる。

こうやって考えると、世の中には才能にあふれた人たちがたくさんいるのだなあ、と改めて思う。テレビの場合は、放送の枠が限られていたために、そこにタレントを押し込む力を持つ芸能プロダクションが幅をきかせ、タレントを強圧的に支配した。それに比べると Vtuber たちはバックに企業がいることは多いとはいえ、みな、純粋にタレントを支援する姿勢を維持しているように見えるのは好感が持てる。これは Youtube, Mirativ, SHOWROOM などの配信媒体がTVの放送枠のように排他的ではなく、基本的に誰でも何時間でも配信できるからだろう。チャンネルの希少性が解消された結果、個人の個性が全面的に開花したのだ。素晴らしいテクノロジーの勝利だと思う。

ブームである以上、いつかはこのムーブメントも失速することもあるだろう。だが、いまはとにかく面白いので、しばらくは Vtuber たちの活躍を見守っていきたいと思っている。

日本人は海外に脱出することなんてできない

久しぶりに時事ネタについて、ブログを書いてみよう。ブログとなるとつい気構えてしまうのだが、ツイートする感覚で気軽に書いてみる。したがって内容は薄くなると思うがご了承ください。

toyokeizai.net

とりあえずこんなツイートを流してみた。

いつもはこの後、連続ツイートをするのだが、今日はツイートの代わりにブログに書いてみよう。

この手の話題が大好きなはてなーたちはブックマークコメント上で大盛り上がり。

b.hatena.ne.jp

その中の典型的なコメントの一つがこのようなもの。

sasagin やっぱりいつでも日本を捨てれる用意はしておかないといけないよね。英語はその第一歩。

まあ、理論上はそうなんだけど、「日本を捨てる」のは現実には非常に難しい。この sasagin さんは違うかもしれないが、日本人は一般的に、海外で働くことの難しさを舐めている。駐在員として日本人が大勢海外で働いているから、なんとなく海外で働くのは簡単という印象を持っているのかもしれないが、それはその人が信用のおける大組織の一員として海外に出ているからこそ働けるのであって、一般論として、個人が独立して海外に行って働くのは非常に難しい。端的に言えばほとんど無理だ。そういう人たちには就労ビザが下りないからだ。

(一応解説しておくと、外国人という存在は、どの国でも、原則として就労はできない。就労ビザとか労働許可とか、国によって制度はいくらか違うが、いずれにしろ、国からの公式の許可があってはじめて、就労できるのである。だから、語学力だとか、企業からのオファーだとか、それも大切だけど、そんなものより、就労ビザが一番大切なのである。現に、本人に能力も意欲もあり、企業も働いてほしいと願っているのに、ビザが下りないがゆえに、泣く泣く帰国するなどということは、日常茶飯事だからだ)

発展途上国ならまだビザは下りやすい(当然、給料は非常に低いが)。先進国で外国人が就労するのは非常に難しい。移民国家と言われていた米国でさえ、トランプ政権の消極的な移民政策とも相まって、米国の大学を卒業した若い人たちでさえ、仕事を見つけられず、あるいはビザの更新ができずに、泣く泣く帰国することが増えているそうだ。

アメリカ留学に異変、トランプ政権下で変わる移民法と留学生への影響 – 留学コラム|iae留学ネット

焦点:米国で専門職ビザの差し戻し急増、外国人採用に暗雲 | ロイター

こういう海外で働くことの大変さがまるでわかっていない人たちが、日本に来る移民たちについて論じている。正直、不毛な感じではあるが、みんな海外経験があまりないのだろうから、責めるのも気の毒かもしれない。実際、私だって、29歳でカナダに渡るときまで、海外の移民事情なんてまるで知らなかったからね。

現実的に海外に渡る方法は次の3つくらいかなあ。

  1. 若くて優秀な人が、先進国の大学に行き、卒業後、現地で就職する。これが王道中の王道。ただ、国によっては、費用が非常にかかる上に、最近は先進国の多くが移民受け入れに慎重になりつつあって、以前ほど簡単ではなくなっている。

  2. 海外に支店・工場を持つ日本企業に就職し、そのツテで海外に行く。駐在員として赴任すれば経済的には恵まれる。ただ、当然、所属企業の都合に従う必要があるから、行く国は選べないし、いつ日本に戻されるかもわからない。現地で日系企業に就職することもできるが、報酬は期待できない。この方法で、先進国に行くのはまず無理で、働く国はたいてい発展途上国になる。とはいえ、特定の国に長くいたい場合には、一番現実的な方法。

  3. お金持ちなら、現地に投資することで長期の就労ビザまたは永住権が得られることがある。何らかの事情で日本を脱出することだけが目的なら、外国で遊んで暮らしてもいい。それくらいのカネはあるのだろうから。

ということで、中年以降の人間が海外に出ようと思った場合は、現実的には、2か3しかない。2も駐在員になるのは難しく、現地採用は経済的に寂しいものがある。いっそのこと、日本でカネを貯めるだけ貯めて、3のコースで海外に出るのがなんだかんだ言って一番いい方法かもしれない。だから、外国に住む→英語力とおもっている人たちが多いけれども、実際に一番必要となりかつ頼りになるのは、カネだったりするのだ。本当にたくさんカネがあれば、外国語など話さなくても通訳を雇えばいいだけの話だしね。

これから、日本経済がどんどん衰退して、人々が貧乏になるという話をしているときに、どうしてカネが一番モノを言う海外脱出ができるというのだろうか。9割以上の日本人は、たとえその意志があったとしても、海外に脱出なんてできないのである。だから、日本で自分の人生を何とかするしかない。結局、自分自身でミクロ的に道を切り開いていくしかないのだが、できればマクロ的な環境もよければサバイバルが楽になるのは確かだ。

いまは日本人はあれこれ言っているけど、今日私が書いたような事実を知るにつれて、現実に向き合うしかなくなるだろう。移民受け入れしかない。まあ、移民というか、現実には、外資を導入して、その管理職の人たちがやってくる、という形で外国人が入ってくる可能性も高い。日本企業が30年前、中国に進出したときのような感じ。その逆バージョンが日本で起こるわけだ。

その先進的な例がニセコなのかもしれない、と私は思っている。

gendai.ismedia.jp

この著者には、一定のバイアスがあり、あたかも外国企業が日本に侵略してきたみたいないい方になっているが、実際には、地元自治体は外資を勧誘したようだし、日本人が英語バリバリのホテルでホテルマンはやれなかったとしても、当然、裏方やら、出入り業者やらの日本人たちは一定程度潤っているだろうし、税収だって上がっているだろう。いずれにしろ、誰もビジネスをしなくて、衰退していくよりずっとマシだろう(まあ、あんまり言うとかわいそうだが、同じ北海道には夕張という、うまく行かなかった例もある)。

多くの日本人は、外国には行かないし、行くこともできない。だが、実際には、日本の人口減を埋めるように、外国資本と外国人が入ってくる。そういう外国人に直接雇われる日本人もいるだろうし、取引する日本人もいるだろう。いずれにしろ、彼らのカネと知恵と人脈を借りて、日本はほそぼそと生き残っていくに違いない。いや、生き残るどころか、日本人と外国人(移民)との間に、新しい化学反応が起こって、実はなにか素晴らしいことが起こる可能性さえある。まあ、過去を振り返ってみても、日本が発展した時期というのは、いつでも海外に対して開放的な時だったからね。

最近考えていること

前回のエントリでも書いたが、最近、バーチャル Youtuberの動画にはまっている。バーチャル Youtuber というのは、3Dモデルをかぶった Youtuber たちのことである (以下 Vtuberと呼ぶ)。去年後半あたりから急に流行し始めた感がある。最初に知ったのは、ミライアカリ。それからキズナアイが一番人気であることを知り、富士葵の歌がすごく上手いことを知った。

www.youtube.com

ここ数年の私は深夜アニメもよく見るのだが、前クールの冬アニメとは違い、今クールの春アニメは自分的には大変不毛。そのため、最近、Vtuber の動画を見ることが増えた。Vtuber の動画はほとんど無料でインターネット上で見られるので、カネもかからないしね。

最近では、おびただしい数の Vtuber たちが活動しており、競争は極めて厳しい。人気 Vtuber たちは、ほぼ毎日、工夫を凝らした動画を投稿している。若い人たちがほとんどだが、彼らの真剣な努力には頭が下がる。彼らの熱意が、私の心の中で凍てついていた何かを溶かしつつあるのを感じている。

私は、約半年前から都内某所にて常駐で仕事を始めた。常駐するのは久しぶりだったが、幸い、環境に恵まれ、いまは落ち着いて仕事ができている。ただ、問題がひとつある。落ち着きすぎて、最近では少しエネルギーが余ってきた。昼間の仕事だけでなく、夜や週末も何か建設的なことをしたい。ただ、ネットの動画を見て過ごすだけの日々は送りたくない。

GW中は、ずっとそのことを考えていた。何か仕事をしてみるか。とりあえずクラウドワークスでプログラミングの仕事を見てみたが、やはり単価が圧倒的に安い。というか、この単価でこの難易度の仕事をやるというのは、よほど優秀なのか、よほどカネにこだわりがないのか。ちょっと不思議な世界である。世の中は、エンジニアが不足しているはずなのに、なぜクラウドソーシングサイトの仕事はこんなに安いのに応募者が殺到するのか…。リモートかつスキマ時間で仕事を希望している人たちが多いっていうことなんだね。

私は、人を使うことを考えたことはないのだが、いまどきの会社は、人を昼間にオフィスで雇うことを考えずに、クラウドソーシングだけで仕事を回せば、相当安く仕事を仕上げられるんじゃないのかな。私にはちょっとできないが、どこかの経営者にはぜひ検討してみてほしい。そうやって、リモートかつスキマ時間の仕事が増えたらぜひ私もやってみたい。

話は、変わるが、最近、ドワンゴの川上さんの書いたこのブログエントリが話題になっていた。

kawango.hatenablog.com

川上さんは、最近の違法サイトのブロッキング問題で相当暗躍したらしい。この件については、私は反対だが、上のエントリの趣旨については、納得する部分もある。確かに、最近は、炎上がひどすぎる。インターネット自警団みたいな連中が、ちょっとでも politically incorrect な言動を見つけると、叩きまくるので、まともな人たちが口をつぐんでしまうというのだ。

この人は、ドワンゴの創業者でカドカワグループの重役という地位がありながら、よくもアケスケにいろんなことをしゃべるよなあ、と以前から思っていた。それは、正直偉いと思う。元LINEの田端さんとかね。

私は、以前、ブログでめちゃくちゃ書きまくっていたが、あれは、私がベトナムにいたからで、日本の会社どころか日本人ともかかわりない生活をしていたからだった。日本にいて、家族がいて、社会的地位もありながら、言いたい放題言うというのは、正直、得られるものよりリスクのほうが大きい。特に、日本はみんなが実名で話をせず、ほとんど匿名または半匿名でしかネットでモノを言わない国なので(これは日本の特徴で、他の国だともう少し実名率が高い)。

ここ数年の私は、仕事を失うことを恐れて、言いたいことをはっきりブログで主張することができないチキンだった。でも、もう少し、勇気を持って話し始めようと思う。カッコつけるだけじゃなくて、自分の恥ずかしいことも含めて、ブログで表現していきたい。Vtuber たちや川上さんからもらった勇気を糧に。

炎上だったり、プライバシーを晒されたり、リアルで軋轢を生んだり等、いろいろ問題はあるにしろ、やっぱり、これからは、ネット上で自分を知ってもらうことは、社会的に重要だと思う。カッコつけて言えば、セルフブランディングとかいうことなんだろうが、そんな横文字より、「ネットを正直に生きる」と言ったほうが私にはしっくりくる。Vtuber もブログ書きも日常的に自分をさらすことになるので、嘘や演技を続けるのは難しい。結果的に、正直にならざるを得ず、その結果、人々から信頼が得られるのだろうと思う。先ほども言ったとおり、生活が落ち着いてきたので、これからは、毎日、仕事以外でも、何か創造的なことをやっていきたい。そんなに大それたことでなくてもいいのだ。人に褒められたり認められたりする必要もない。自分が、自分のささやかな成長に満足できればそれでよいのだ。

求む営業マン

私は、最近、バーチャル Youtuber (Vtuber) たちの動画を見るのが好きである。ただの Youtuber とは違って、3D モデルが必要なので、それなりの技術や資本がいるだろう。だから有名な Vtuber は企業の支援を受けていることが多いらしい。とはいえ、あくまでも個性を売り出していくのは、本人たちの工夫と努力の賜である。最初のころは、泥臭く垢抜けなかったのに、投稿回数を重ねるたびにどんどん洗練されていく姿を見るのはまぶしい。私は有名どころの Vtuber はちらほら見ているけれども、最近、一番のお気に入りは富士葵である。富士葵は17歳の女子高生という触れ込みであるが、真偽は不明だ。しかし、彼女の不思議なトークは、なぜか見る者を保護者のような気分にさせる。実際、私は、自分が叔父になったような気分で彼女の活躍を見ている。

去年後半から急激に盛り上がってきた Vtuber たちだが、彼らを見ていると、10年前のブログ黎明期を思い出す。あのころは、実に面白いブロガーたちがたくさんいた。それぞれの個性をもったブロガーたちが、日々ブログを更新していく。それにファンがついて、まさにいまの Vtuber 界隈のようだった。私もブログを書いていたが、ブログ仲間の一人が「ブログ芸人」という言葉を使っていたのには、膝を打った。確かに、ブロガーは文章の内容そのものもさることながら、いくつもの文章の全体から醸しだされるその人の人柄に、ファンがついているのであり、それはライターというより芸人に近い。

私も、一時期は、多少人に読まれるブログを書いていて、だから、芸人や Vtuber たちの気持ちが少しだけ、わかる気もする。芸人には、ファンがいて、ちやほやしてもらえる一方で、アンチも現れて批判も浴びる。芸人は、ファンの間では、一種の教祖様のようなものだから、先日、騒ぎを起こしたアイドルグループの一員のように、何か問題を起こせば、一般人以上の非難を受けることになる。芸人とは、ある意味、ファンたちのリーダーでもあり、人々の模範となる責任を負っているからである。それは生身の人間にはつらいことだが、芸人というキャラを演じることでなんとかその責任を果たし、報酬を得て、生きていけるのである。それはなかなかつらいことだが、それが彼らが選んだ道なのである。

私は、自分のことはなんでも正直に話すスタイルの「ブログ芸人」だった。キャラを演じないので、ある意味、演じられる人たちより、つらかった部分もある。その反面、救われたところもあった。ブログを介して、さまざまな面白い人たちに出会うことができたし、文字通り、仕事を得ることもあった。

いまさら何かのキャラを演じるのもアレだし、こういう正直になんでも話すスタイルのブログというのも気に入っている。実名でやっているので、なかなかつらい部分もあるが、匿名だと安心して何でも書きまくり、あとで身バレして大騒ぎになるよりはマシだと思っている。だから、これからも実名でブログを書いていくつもりだ。実名であるがゆえに、書けないこともあるが、書けることはできるだけ書いていきたい。

このGW中、私はずっと今後の仕事の方向について考えていた。いま私は都内のある会社に10時から19時まで常駐して、ソフトウェアエンジニアとして働いている。その会社は、人工知能を使ったソリューションやプロダクトで有名なところで、私も、Ruby on RailsPython を使って、機械学習要素のある製品の開発を行っている。たまたま、周囲にいる人たちはみな優秀で気持ちのよい人たちだし、自分も楽しく仕事をさせてもらっている。

この現場に入って、半年くらい経過するのだが、だいぶ仕事に慣れてきて、能率的に仕事がこなせるようになってきた。それはよいことなのだが、その結果、平日の夜や週末がだんだんヒマに感じるようになった。今の気持ちとしては、遊ぶより、もっと仕事がしたい。いまは働き方改革の一環として、副業が普及しつつある世の中である。私はフリーランスだから副業もへったくれもないのだが、もうひとつ仕事をしようと思っている。

いくつか候補はある。プログラミングを教えるのもいいかなと思うし、プログラミングに関する記事を書くのもいいかもしれない。あるいは、別のソフトウェア開発の仕事をやってみるのもよいかもしれない。私の専門分野はウェブ開発なのだが、最近は、データ分析・データ基盤整備にも興味がある。Python を使ってスクレイピングなんていう仕事があったらぜひやってみたい。

私には、いくつか弱点がある。それは、自分に「これがやりたい」という確固たるものが「まだ」ないのである。何か作りたいウェブサービスもない。自分には、営業マンのセンスがない。昔は、自分が営業をやろうとしたが、そのたびに経済的にはいつもエライ目にあった。営業マンのスキルには憧れがあるものの、私には才能がないのだろう。だから、営業をやることは諦めようと思う。そのかわり、誰かに私に代わって営業をやってほしいなあ、などと夢想する日々である。

すべてがIT化していく世界

いまビッグデータとAIを扱う仕事をしているのだが、それをやっていてつくづく思うのは、「ITは強力すぎる」ということ。毎年、計算資源はどんどん増えているのに、人類はまだそれを上手く活かせないでいる。これを活かせる人間や組織と、活かせない人間や組織では、毎年どんどん大きな差が生まれつつある。それをIT活用の最前線にいて、痛いほど感じている。

私はずっとITの仕事をそれほど面白いと思わず、正直いやいや仕事をしてきた。だが、最近、ビッグデータ・AI・ブロックチェーンの技術に触れるにつれて、いまだかつてない情熱が湧き上がってきた。

私が退屈だと思っていたのは、テキストフィールドやボタンがどうのというUIの話と、それをデータベースの決まった場所に格納する決まりきった仕事をやっていたからだった。そこから一歩踏み出して、大量のデータに対して、知的なアルゴリズムを使ってさまざまな操作を加える仕事は、想像以上に楽しかった。計算資源ギリギリの線を攻めるといろんな工夫を凝らさなければならないのだが、それを考えるのがとても面白いことに気づいた。当たり前だが、IT自体がつまらないのではなく、ITの中につまらない仕事と面白い仕事があるにすぎなかった。

最近は、ロボティック・プロセス・オートメーション(RPA)という言葉が流行っているらしい。大手の銀行などはこれで人員削減をすると大張り切りである。

innovation.mufg.jp

名前は仰々しいのでどんなものかと思って調べてみたら、実際は、従来の Excel のマクロに毛が生えた程度のものらしい。

ロボティック・プロセス・オートメーション - Wikipedia

私は、むしろそんな単純作業で少なからぬカネをもらっている人たちがこんなにたくさんいたことに驚いた。プログラマというのは、単純作業をやらなければならないときも、自分でさっとツールを作って、自動処理をすることが多い。考えてみると、普通の職場にいる人たちがPCを触るとき、与えられたシステムをただ操作するだけで、それを自動化することはいままでできなかったのだ。何という不効率だろうと私は愕然とした。

将来、ユーザインターフェイスが大幅に改善して、人間が機械に語りかければ、何でもやってくれるという時代が来るのかもしれない。だが、そこまでは、人間がある程度、機械に歩み寄って、機械のわかる言葉で話しかけなければならない。コンピューターに関する知識が多ければ多いほど、それは容易にできるようになる。

だったら、基本的に誰でもコンピュータの操作法を学ぶべきではないか。単にいくつかのアプリを使えるというだけでなく、プログラミングもできたらもっとよいのではないか。

こんなに世界に計算資源が満ち溢れ、ITがものすごいものになってしまうと、すべての仕事をよりよくITでこなせる個人や組織がどんどん経済的地位を向上していくことになるだろう。プログラミングの仕事は、今でこそ、プログラマと呼ばれる一部の専門職の独占物になっているが、近い将来、多くの非プログラマたちが、何らかのプログラミングをするようになるのかもしれない。むしろ、それができない人たちは高い収入を得られなくなっていく可能性があるのではないか。

昔は、こんなふうには思わなかった。だが現在の技術・経済・社会の趨勢を見ているとそういう未来がすぐそこまで来ている気がしてならない。

私は、子供の頃、趣味でプログラミングを始めた。本当は常に別の仕事をしたいと希望していたのだが、生活するためにプログラミングをするしかなかった。決して希望してプログラマになったのではなく、消極的な理由でたまたまそうなったにすぎないのだが、どんどん経済の中核的な表舞台に押し出されてきている感がある。正直、私は本当にラッキーだと思う。たまたま買った宝くじが大当たりしたようなものだ。

学校でもプログラミング教育が始まるとのこと。これは正しい方向性ではある。学校の現場からは、「プログラミングを教えられる教員がいない」というぼやきも聞こえてくるが。実際、学校は、たいへんIT化が遅れた場所なので、これがきっかけで学校自体も大きく変貌を遂げることになるのかもしれない(いまの状況を考えるとそれは避けられない気がする)。

私にとってはとても幸運だったとは言え、本当に恐ろしい時代になったものだ。だが現実は受け入れるしかない。

ファッションとは言語であるという仮説

私は、ファッションが嫌いだ。大嫌いだ。あるいは「大嫌いだった」と言うべきか。

私は、子供の頃から服装がダサいと言われ続けた。特に、家族の女性たちから。それがあまりに辛辣だったために、深く心の傷として残っている。自分は、ダサいやつなのだ、と。ファッションセンスがゼロなんだ、と。心の奥底に深く刻まれたのだった。

私は、正直なところ、どの服を着るべきなのか、どんな髪型がよいのか、どんなインテリアがよいのか・・・という「色と形」に関する話がとことん苦手だ。私はウェブプログラマーをしているが、ウェブサイトを組み立てる技術は知っていても、ウェブサイトの見栄えのデザインはさっぱりできない。これは、私が服を選べないという話と通底する問題だろう。

何が嫌かと言えば、「色と形」の話というのは、機能性の問題ではないからだ。たとえば、服がどんな色だろうが形だろうが、服を着ていれば、一応、体温を維持し、物理的衝撃から保護するという機能は果たせる。だったら、色や形などなんでもよいではないか。いったい「流行」とか「かっこいい」とか、いったい何の話なのだ。そういう風に、小学生の頃からずっと思ってきた。

私が思春期を過ごしたのは、バブルの頃だ。当時は、奇抜なファッションが幅を効かせていた。私から見ると、ファッションなどというものは、人々に衣服の買い替えを促し、利益を上げるためだけの、商業主義の権化のようにしか見えなかった。

だが、最近になって少しだけ考え方が変わった。

歳を重ね、もともと大したことのない容貌がますます衰えていくのを自覚せざるをえない。私は、仕事柄、若い人たちと接することが多いし、これから、老人になっても、きっと若い人たちの世話になって生きていくことだろう。若い人たちに嫌われるわけにはいかない。そのためには、自分の服装に少し気を付けないといけないのではないかと思うようになった。

街ゆくお年寄りを観察しても、やはりおしゃれをしている人は、素敵だなと感じざるをない。加齢に伴って容貌が衰えていくのは避けられないので、むしろ、歳を取ってからこそ、おしゃれは必要なんだろう。

自分がどんな格好をしたらいいか全くわからない、と先ほど述べた。だが同時になんとなく「この人はおしゃれだな」というのもわからなくはないのである。これは確かに矛盾しているのだが、実際そうなのだ。だから、私は、この「ファッション」という現象に対して、正面から向き合わなければならないと思った。自分らしいやり方は、徹底的に理詰めでこの現象について理解することだ。

だからこんな本も読んでみた。

ドン小西のファッション哲学講義ノート (モナド新書008)

ドン小西のファッション哲学講義ノート (モナド新書008)

この人は、もともと金持ちのボンボンだったのだが、ファッションが好きで、自分で服を作り始めるようになった。一時は、たいへんな売れっ子だったのだが、時代が変わったときに、自分のこだわりが強すぎて、売れ筋の服を作らず破産したという気骨の人物である。彼のファッション哲学はなかなか興味深かった。だが、それでファッションが理解できるようになったかといえば、やっぱりそんなことはない。

ただ、この本を読んでおぼろげな仮説が浮かんできた。それは「ファッションとは言語である」というものだ。

人類は、進化の過程で体毛の大半を失ってしまった。気候に適応し、物理的衝撃から守るためには、何らかの物質で身体を包むしかない。もちろん、最初の目的はそれだけのことだった。問題は、「何らかの物質で身体を包む方法」が一つに定まらなかったことだ。無数の方法があった。さまざまな素材、さまざまな色、さまざまな形。人間というのは、こういう恣意性があると、それを徹底的に利用し尽くす傾向がある。

それは言語とよく似ている。言語は、たぶん叫び声から始まった。それが少しずつ分かれていき、様々な音が様々な意味を表現するようになった。ただ、その音と意味の組み合わせは完全に恣意的である。昔、言語学の本にそんなことが書いてあった気がする。文字だってそうだ。ある形が文字として使われて、言語の中である役割を担う。「あ」という発音が、「あ」と書かれようが「a」と書かれようがどちらでもいい。その組み合わせは完全に恣意的である。歴史的な偶然でたまたまそうなったにすぎない。ただし、一度関係が確立してしまえば、その文字の使われ方はその言語の中で固定される。

ファッションというのは、おそらくは衣服を用いた言語の一種なのだろう。それが時代によって変遷するのは、言語において、語彙が変遷するのに似ているのかもしれない。「流行語」などという言葉もある。私が、ファッションを忌み嫌ったのは、ある全く同じ格好がある時代ではかっこいいのに、別の時代においては流行遅れのかっこわるいものとして扱われるという恣意性が気に入らなかったからだ。でも、もともと「色や形」とそれが表現する「意味」の結びつきが恣意的なものだとすれば、それもやむを得ないことなのかもしれない。日本語だって、平安時代と現代では、語彙も文法も全然違う。なんで同じことを表現するのに、平安時代はこういう風に言って、現代ではああいう風に言うのか、などと文句を言っても、「それはそういうもの」としかいいようがない。

私は、さながら中学時代に英語の授業に落ちこぼれて、以降英語がまったくわからなくなってしまった人のようなものなのかもしれない。あるいは、小学時代に分数の計算がわからないまま、大人になってしまい、複雑な数式を目にすると狼狽してしまう人みたいなものなのかもしれない。私は、どういうわけか、子供の頃、「ファッションの文法」を理解しそこねた。そのまま、大人になってしまったものだから、おしゃれな人たちが身体を使って表現する言語の意味がまったく理解できないのだ。

だから、これから私は、ファッションを一つの外国語だと思って学んでいこうと思っている。私は、幸い、言語を学ぶことは大好きだ。この類比が正しいのかどうかはわからない。ただ、当面、この仮説に従って行動し、若い人たちにせめて不快感を与えない程度の服装を身につけようと考えている。

結局、これはコミュニケーションの問題なのだから。「私は、あなたの存在を認知していますよ、自分は安全な存在ですよ」という社会生活上、最低限のメッセージは、ファッションを通じて発信していくべきじゃないだろうか。