バレンタインデーの思い出
今日は2月14日、バレンタインデーである。
この日の本来の意義は知らないが、日本では「女性が意中の男性にチョコを贈る日」となって久しい。私は、半世紀近く生きているが、子供の頃にはすでにそうだった。
私は、イケメンでもなく、行動力があるわけでもなかったから、学生時代、女性には全くモテなかった(まあ、その後も、たいしてモテていないが(笑))。それでも、バレンタインデーにたまたま女友達に会えば、義理チョコくらいもらっていた気がする。チロルチョコとか数十円くらいの小さなものを。そんなものでも私はとても嬉しかった。
他の男性がどう考えているかは知らないが、私にとってはバレンタインデーは自分の男性性が証明される日であった。女性からチョコをもらえば、たとえそれが小さな義理チョコであっても、「私は男として認知されている」と少しだけ自信を持てたのだった。
そんなバレンタインデーではあるが、数年前、私は家で引きこもって仕事をするようになった。そうなると当然ながら女性には出会わない。女性と物理的に会わないのだから、チョコがもらえるはずがない。でもチョコがもらえないとやきもきする。あるとき、ふと気がついた。「だったら自分で自分にチョコを買えばいいじゃないか」と。もちろん、これはチートである。女性が私にチョコをくれないのだから、自分の男性性が認められたわけではない。自分でチョコを買っても、「認められた」というかすかな錯覚を得るだけである。それでも、歳を重ね、恋愛感情が遠いものとなり、バレンタインデーが乗るか反るかの切実さ失うにつれて、自分が自分に送ったチョコは、かすかな青春の思い出を運んできてくれた。少しだけうきうきした。
自分に贈るチョコは、2月14日には当然買わない。もちろん恥ずかしいからである。その一週間前くらいに仕込んで、自分の部屋の片隅に大切にしまっておく。そして、2月14日が到来したとき、苦いストレートのコーヒーを片手に、自分に贈ったチョコレートを食べるのである。
私がチョコにこだわるもうひとつの理由は、たぶん単純に私がチョコが好きだからだろう。私は、基本的に甘いものが好きだ。だから、チョコをもらうと純粋に嬉しい。チョコを食べるのが好きだからだ。たぶん統計を取れば、男性より女性のほうがチョコ好きが多いだろう。だから、チョコが嫌いな男はそれなりにいるだろう。彼らがチョコをたくさんもらっても処分に困るかもしれない。なかなかうまく行かないものだ。
世の中にはいろんな人たちがいるのが常だ。きっと子供の頃から女性にモテモテの男もいるだろう。そういう男は、きっと小学生のころから、バレンタインデーには女子からたくさんチョコをもらい、思春期以降はガールフレンドに事欠かない人生だったのだろう。知り合いにはいないけど、絶対にそういう男はいるに違いない。自分の人生とは隔絶しすぎていて、どんな気分なのか想像もつかない。若い頃の私なら、きっと死ぬほど羨ましいと思っただろう。ただ、この歳になると、きっといいことばかりではないのだろう、と想像したりする。まあ、やっかみがゼロとは言わないが、実際、ある種のリソースが豊富にあることは、自動的に幸福を約束しないのだ。たぶん、私の想像は間違っていない。
頭が良くてどんな大学にも簡単に合格する人もいる。あるいは、金持ちで何でも自由に買える人もいる。彼らが幸せかという、必ずしもそうではない。そういうリソースを持たない人間から見れば羨ましいかもしれないが、そういう「持てる」人たちは、持たざる人たちには想像もできない苦労がいろいろあったりするものだ。確かに神は人を不平等に作ったが、それによって幸福か不幸か自動的に定まらないようにもした、という意味では案外に平等なのかもしれない。
私は、最近、自宅で仕事をするのを止めて、外にあるオフィスに通うようになった。私は、自分のためにチョコを買って用意していたのだが、意外なことに、今年はオフィスで義理チョコをもらってしまった。義理チョコというより、男性にはみな平等に配られたという意味で「チョコの配給」という感じであったが。私は、まず自分で買ったチョコを食べて、もらったチョコはそのままにしてある。やはり人からもらったチョコはあまりに尊いので、簡単に手を付けることはできないのだ。もし部屋に神棚があったなら、祀っていただろう。男で良かったと思った。チョコ万歳、バレンタインデー万歳。お返しのことを考えるとなかなかつらいけれども…(笑)。